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黄石公三略
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 三とは上中下三巻である。略とは謀略である。

 世に、黄石公が[土已]橋{いきょう}で張子房(張良)に授けた書であるという。

※張良:前漢創業の功臣。字は子房。韓の人。秦の始皇帝の暗殺に失敗、のち黄石公から太公望の兵書を授けられ、劉邦の謀臣となって秦を滅ぼし、鴻門の会に劉邦の危難を救い、遂に項羽を平らげて漢の帝業を成し、留侯に封ぜられた。(〜前168)
※黄石公:秦末の隠士。漢の張良に兵書を授けたという老人。張良はこの兵書を読み、漢の高祖の天下平定をたすけた。

 しかし、漢書藝文志に、張良・韓信が兵法の順序を整え、およそ百八十二家から有用な部分を厳選して、三十五家を定めたというのに、三略のことは述べられていない。

※韓信:漢初の武将。蕭何・張良と共に漢の三傑。江蘇淮陰の人。高祖(劉邦)に従い、蕭何の知遇を得て大将軍に進み、趙・魏・燕・斉を滅ぼし、項羽を孤立させて天下を定め、楚王に封、後に淮陰侯におとされた。謀叛の嫌疑で誅殺。青年時代、辱しめられ股をくぐらせられたが、よく忍耐したことは「韓信の股くぐり」として有名。(〜前196)

 漢の成帝のとき、任宏が兵書を論じ、権謀・形勢・陰陽・技巧の四種に分けた。合わせて五十三家だが、三略はまたも載っていない。

 史記によると、張良は若いとき、下[丕β]{かひ}の[土已]橋で老人に会った。書一編を出し、「これを読めば王者の師となるであろう」と言って去った。これを見れば太公望の兵法書であった。
 資治通鑑綱目によると、張良が沛公(劉邦)と会ったとき、良は大公の兵法によって沛公に説いた。公はこれをよく用い、常にその策を採用した。他人の意見は省みなかったという。

 隋書経籍志の兵家にはじめて黄石公三略三巻が記録されている。下[丕β]の神人の撰っとされている。唐書・宋史の両藝文志に載っているのも同じ。

 唐の李靖もまた「張良が学んだのは、太公望の六韜・三略である」と言っている。とすれば、三略は太公望の本であって、黄石公が子房に与えたということになる。これこそ、兵家が今に至るまで黄石公の書だとしてきた理由である。

 宋の張商英はこういう。「黄石公が子房に授けた本がある。世人には、これを三略とする者が多い。しかし、これはおそらく誤りであろう。晋の乱のとき盗賊がいて子房の墓を荒らした。その枕の中にこれを手に入れた。君主はそれを隠した。神ならず、聖ならざる者が伝えることを許さなかったという。もし、もとの本が子房塚の中から出たものなら、隋唐以来の有名な碩学の士がどうしてこれについて一言も言及していないのか。おそらくこれは後世の人がならって作ったものであろう」

 内容は老荘思想(道教)的な部分が多い。日本には『三略』が古く伝えられ、大江家の兵法の基礎となった。

上略

中略

下略


by ISHIHARA Mitsumasa 石原光将