Japanesque

闘戦経

 兵法書といえば孫子、クラウゼヴィッツというのが大方の相場であろう。あえて日本で、といえば、戦時中の『統帥綱領』、あるいは『甲陽軍鑑』程度しか思い浮かばないかもしれない。甲陽軍艦も兵法を説いたというよりは、武田家の戦略の記録のようなものである。

 しかし、日本にも古典的兵法書がないわけではなかった。某氏からの情報提供により、ここに再現することができるのは望外の喜びである。この書の名を『闘戦経』という。

 闘戦経は、大江家に伝わるという古書である。作者も、大江維時だとか大江匡房だとか、序に書かれているが、よくわからない。これが応仁の乱での消失をまぬがれ、毛利元就の弟にあたる大江元綱、その家臣の秦出羽守武元を経て、秀吉や家康の時代の大江正豊に伝えられたということらしい。もっとも、こういう古文書はどこまで由緒が正しいかわからないのが相場である。

 大江家は代々朝廷に仕えて、文章算道を業としたが、大江家の太祖維時は、第六十代醍醐天皇の延喜元年、勅命によって中国に渡り、六韜・三略・孔明の書など三十巻をもたらしたことが歴史に載っている。また、その子孫の匡房は、後三条天皇に文学で仕え、蔵人から出家して権中納言兼太宰権帥となり、天永二年には中納言を辞して大蔵卿を兼ね、藤原伊房・藤原為房とともに、当時の人から「三房」と呼ばれていた。幼時から神童として知られ、著名な兵学者である。

大江氏
 土師(はじ)氏の分派で、790年には大枝朝臣を称したが、学者として知られた大江音人(おとんど)のときから大江に改めた。一節には平城天皇の子孫とも。平安時代、大江音人以来、代々にわたって学者・文人を輩出した。なかでも千里、維時、匡房などが有名。また、大学寮の文章院東曹を大江音人が管理して以来、歴代これを継ぎ、西曹を管理した菅原氏(管家=かんけ)とともに文章(もんじょう)道を担い、江家(ごうけ)と呼ばれた。毛利氏などはこの末裔。
大江維時(おおえのこれとき)
〔888〜963〕大江音人の孫、千古の子。文章博士、大学頭となり、さらに式部大輔、東宮学士、参議を経て、中納言となり、公卿となった。学者として令名が高く、醍醐・朱雀・村上三代の天皇の侍読をつとめた。『日観集』20巻、『千載佳句』を編集。博覧強記で、平安遷都以後の人々の死没年月、邸宅の変遷、沿革まで暗記していたという。

大江匡房(おおえのまさふさ)
〔1041〜1111〕平安後期の学者。匡衡(まさひら)の曽孫。家学の文章(もんじょう)道によって権中納言,大宰権帥(ごんのそつ)に進み,後三条・白河・堀河各天皇の侍読を勤めた。博覧多識,詩文和歌にすぐれ,朝儀典礼に通じた。著書『江家次第』『江談抄』『本朝神仙伝』『続本朝往生伝』等。日記に『江記』がある。

 さて、この闘戦経だが、戦時中には一時「静かなブーム」になったらしい。私の手元に送られてきたのは、昭和19年の研究書である。これ以外にも、海軍などがかなり研究していたらしい。しかし、その後、この書物はすっかり忘れ去られてしまった。

 現在、出版物で手に入れるのはほぼ不可能であろう。古書店か、国会図書館(これも古典籍史料室に入ってしまっているらしい)でしか手に入らないはずである。

 というようなものが転がり込んでくれば、広く公開したくなるのが私の性分。ということで、どうぞご活用ください。一応、データ化の労力を考慮して、ウェブ上での引用・リンクにあたっては、このURLを明記してくださるとありがたい。

 さて、この闘戦経は、歴史的価値、いや、それ以上に戦略書としての価値はどれほどのものであろうか。私にはまだわからない。読者諸賢の感想・研究を待つ次第である。

現代語訳版(全文)
  ふつうはこれだけ読めば充分でしょう。

書き下し文(全文)
  古文調が好きな人はこちらで読んでみてください。

原文そのままの漢文(全文)
  研究者のために、原文を掲載しておきました。

Special Thanks : ハンドルネーム「大江のちさと」

参考文献:
中柴末純『闘戦経の研究』宮越太陽堂書房 昭和19年5月30日
中野清『闘戦経 全』(五典叢書第三冊)五典書院 昭和43年5月25日

石原光将 ISHIHARA Mitsumasa