闘戦経
|
|
|
|
眼は明るいほうがいいといっても、どうして三眼を願うことがあろうか。指が役に立つといっても、どうして六指が必要だろうか。善に善を重ねるならば、かえって兵で勝つ方法とはならない。
死を説き、生を説いたとしても、死と生とをわきまえることはできない。死と生を超えてはじめて、死と生との境地を説くことができる。
孫子十三篇はいずれも「おそれ」の域を脱していない。
気(生命力)は容器(肉体)を得て生きるが、うつわがなくなっても存在している。薬草は枯れてもやはり病を癒やす。四肢がまだ破れていないのに、心が先に衰えるのは、天地の原則から外れたものである。
魚にはヒレがあり、カニには足があり、ともに海にいる。魚はヒレがあって水中で早く、、カニは足があって水陸両用。専門をとるか、兼務をとるか。
ものの根源には五つある。一つは陰陽、一つは五行(木・火・土・金・水)、一つは天地、一つは人倫(倫理)、一つは死生。これらのそもそもの始まりを見るものが神である。神であって、人々を教化する者を聖という。
軍には、攻めるか守るかはあっても、孫子の兵法のように奇襲と正攻などはない。
兵は威光を利かすものである。
儒教的道徳では死に、謀略では敗走する。愛する夫が海上に去った姿を見送り、岩の上に立ちつくして名残を惜しみ、そのまま石化した松浦佐用媛のように貞節な女性は後々まで残るが、謀略の士の場合は、骨すら残ったことがない。
将には胆略があり、兵士は踵を返して逃げるようなことがないなら、まことに結構だ。 |
鳥にはくちばしがあり、翼があり、足がある。くちばしがなければ、命をまっとうするのがむずかしい。翼がなければ、敵から逃れるのがむずかしい。足が無ければ食を得るのがむずかしい。ああ、どれを選んだものか。それならかえって、わたしはマムシの毒を準備しておこう。
一度疑いはじめれば、天地のすべてが疑わしい。疑わなければ、万物すべてが疑われない。ただ身体の動きに従って、万物は用いるべきときに用い、捨てるべきときには捨てる。
呉子の兵法六篇は、兵法の定石を繰り返し言っているだけのものである。
政治を執る国内の臣は、物欲があると善政を敷くことができない。海外にいる武将は、危難にあってぐずぐずすると好機を逸する。
草木は霜を恐れるくせに、かえって雪は恐れないものである。人は、威厳は恐れるけれども、罰はかえって恐れない。
ヘビがムカデを捕まえるのをみれば、足が多いのも足がないのに負けることがある。統一された精神こそ兵勝の根本なのだ。
取捨するとき、取るべきものはどんどん取り、捨てるべきものはどんどん捨てるのがいい。トビのようにきょろきょろしたり、キツネのように疑ったりするのは、智者がやらないことである。
木には火あり、石も火あり、水にも火あり、五行すべてに火がある。火は太陽の精髄であって、元神の鋭である。ということは、守ったときに堅固でなかったり、戦って屈服したり、困窮して降伏したりするのは、五行の英気に従っていないからである。
食べれば満足するように、勝ってこそ仁義も行なわれるようになる。
小さなマムシに毒があるのは、天与の性質だ。小さな軍勢で大きな敵を破るのも、またこのようなものである。 |
鬼智もまた智であり、人智もまた智である。鬼智は人智よりも優れている。人智が、鬼智の上に出ることはないのであろうか。
国が乱れてこれを治めようとする者は、簡明直裁、疑念の横行を禁じる。その目標は、権をいっそう堅固たるものにするためである。
指を意識して手を使うようでは未熟である。舌を意識して話する間は未熟である。そのような意識で物事をしていると、虎のような剛毅な人間であっても、羊のような柔弱なものに成り下がってしまうだろう。
変わったことといっても、実は何の不思議もない当たり前のことである。妖怪といっても、本体は狐狸の類のもので、恐れるほどのことではない。自分の夢と神の夢とを合わせ鏡のようにして見ると、これらのことがよくわかってくる。
胎内の子に胞があってその安全な成長を助ける。これを見れば、神が人間の身を護ってくださるのがよくわかる。その守護のもとに活動しよう。
細いつるに大きなヒョウタンが成る。激烈な毒が小さいマムシにある。唯摩経には、芥子が須弥山を覆うという言葉が乗っている。造化の本質は、小の中に大を秘めているものである。
まず足元のヘビを倒してから、山中の虎を制圧すべきだ。(国内の災いをなくしてから、敵国と戦え/国内の災いをなくしつつ、敵国と戦え)
ほのぼのと暖かい感じで心に潤いを与える珠玉は、知を表わしているのではないか。その形は内に向かって凝結されている。だから、智者は内省的であれ。光り輝く火炎は勇を表わしているのではないか。その形は外に放射されている。だから勇者は外向的であれ。天地の現象には陰と陽とがある。知も勇もこの現われだろう。天地に則って、処世するのを至道という。これ以外に至道とは何をいうのか。
太鼓を鳴らして戦となったら、仁義などといっておれない。切り結ぶ白刃に対しては原理も定理もない。
本体があり、それを動かして活用強化するなら成功するが、まずとにかく活動していて、その集積によって本体を形成しようとすると、不安定で、どんなものになるかわからない。同様に、剛毅な心身を持ち、それを基盤として武道を学べば勝者となるが、武道を学んでいるうちに剛毅な心身を作ろうとすると、負ける。
|
亀はおおとりになろうとして努力しても、万年たってもできない。ジガバチは青虫の子に対して祈って、わずかな間にジガバチに変えてしまう(詩経より)。成功・不成功は人間の力だけではなんとも決定しがたいのではないか。
鯉が龍門の滝を登って龍になるのは、力による。力は意識的、後天的なものである。その龍が天に昇るのは、勢である。勢は無意識的、先天的なものである。
わずかな兵力で短期間に敵を滅ぼさずにとりこにするには、たとえば、サソリの尾の毒のあるところのような、敵のたのみにしている攻撃力の急所を討つのに限る。
腕力・意識の人力を尽くして一気に矢を放つ。大勢の敵を小勢で討つには、このように時期をとらえて一気に進むのがよいだろう。
龍車に向かうカマキリというたとえがあるが、向こう見ずの蛮勇で成功しない。相手が何者であるかを見極めたら、カマキリも腕を折らずに済むのである。とすると、智が先にきて、勇はそれに従うものなのか? むかし、船を作る人がいた。ある人が「帆を作ってからかいを作るのか、かいを作ってから帆を作るのか」と尋ねた。船工はノミを投げ捨てて言ったという。「あんたのようなのは大海を渡る人にはなれようもない」
幼虫のときに空を飛ぶことがわかろうか。蝉になったときに土ごもりができようか。一人が二つのものを得ようとすれば、あちらを得ればこちらは得られず、こちらを得ればあちらは得られないということになる。
人が精神力をみなぎらせれば勝つ。鬼が精神力をみなぎらせれば、恐れさせる。
(三とおりの解釈が可能である) 水中の動物には甲羅や鱗がある。守るのに都合よく固い。山の動物には角や牙がある。戦うのに都合よく鋭い。(先天的な持ち前を発揮せよ) 水中の動物には甲羅や鱗がある。守るには固くしなければならない。山の動物には角や牙がある。戦うには鋭くしなければならない。(先天的な持ち前に頼らず努力せよ) 水中の動物には甲羅や鱗がある。守って固くせよ。山の動物には角や牙がある。戦って鋭くせよ。(先天的な持ち前と努力とを両方用いよ)
石を投げて大軍に打撃を与えるには、力がいる。矢を放って羽が食い込むまで深く命中させるには、力よりも技術が必要である。技術は力よりものをいう。しかしながら、兵術はワラジのようなものだ。足が健康であってはじめて履く意味がある。歩くことができない者には役立たない。
龍となって雲や雨を思いのままにしようか。虎となって百獣を畏怖させようか。狐となって化かそうか。龍になるのは威厳である。虎になるのは勇気である。狐になるのは知謀である。威厳は長続きしない。勇気はくじけやすい。知謀には内実がない。そのため、昔の人は威力だけに頼るのでもなく、勇気だけに頼るのでもなく、知謀だけに頼るのでもなかった。 |
北斗七星が北を示し、磁石が北を指すのは、永久不変の天道か。
兵の基本は、禍患を防ぐことにある。
神業のような用兵を発揮しようとして、心を研ぎ澄ますのはいいが、それを勘違いして心を虚無にしてしまってはならない。
闘戦経終 |
|
|
|
石原光将 ISHIHARA Mitsumasa |