シミュレーション戦
現実の戦闘は汚く、おもしろくなく、そして、そう、危険だ。シミュレーションされた対立はこれらのいずれでもない。シミュレーションの忠実さが充分であり――毎年それが改善されているなら――その結果は対立の妥当な近似となる。現実のものごとを省き、シミュレーションされた対立にこだわってみてはどうか? 理想主義は置いておき、シミュレーション戦を闘うことは、敵にそれが負けるであろうことを証明できるだろうか?
シミュレーションを思いとどまらせる要素は、ある意味では、実用よりもデモンストレーション用の兵器のほうが充実した装備をしているという傾向のある拡張だ。おそらく、戦艦がそのいい例だろう。合衆国は第二次世界大戦中よりも多くの核兵器を所有してきたが、結果的に落とされた広島よりも、効果的には東京湾で最初に爆発させることを選んでもよかったのだ。もし、実際には現在使われなくなっていようとも、対立を指揮するのが完全装備の軍よりも一人の英雄を使うということは、聖書や古典の先例としてある。これらの実践とシミュレーション対立の間のギャップは、どちら側も結果を受け入れるとしても、隔たったものとなるだろう。
あいにく、戦争の現実とシミュレーションの幻影は、相性がよくない。シミュレーションのためにあつらえられた環境は個々の要素で構成されており、そのそれぞれは行動によって特徴づけられるが、相互行動は複雑である。このため、風洞はよいシミュレーションである。将来のかくれんぼ対立において、戦闘の属性を特徴づけることはほとんど不可能である。戦闘の多くは、双方の陣営の、相手陣営をだます能力、何がうまくいき何がうまくいかないかを学ぶ能力、結果を教義に結びつける能力、そして、そうすることによって、ゲームの勝利に勝利を重ねる洗練を行なう能力にかかっている。これらの軍事行動は、正確なシミュレーションには最も従わないものである。
付け加えるまでもないが、両陣営とも、これらを使いこなすことによって、能力とシステム数と戦略を有しているというありそうもない事態においては、これらのシステムの質を隠したり発見したりすることは正直に表現されるだろうか? 相互シミュレーションには、それぞれのシステムの可能なことについて敵と同意することが必要だ。二つの陣営が、この信頼の注文をできるというのなら、戦争なしに論争して解決することができそうなものだ、と読者は思わないだろうか?
現在のシミュレーション技術の魅力は、それぞれのオペレーターの視点から戦場をかたどる能力にある。シミュレーションにおいて、オペレーターと複雑なプラットフォームが結びつくことは、オペレーターと複雑なプラットフォームが戦闘の部隊から離れたときにのみ促進される。情報システム、そして超水平線兵器は、いよいよ戦争そのものになっていく。そして、それは巨大な自己シミュレーションシステムなのである。
ゲームのそれほどこっけいではないヴァージョン――そしてコンピューター・シミュレーションを差し控えているもの――は、現実世界での隠れ、発見するシステムを試しているが、現実の軍需品をヴァーチャルなもの――たとえばレーザータグと同様のもの――に変えてしまうには至らない。私的なウォー・ゲームと国家訓練センターはこれを行なう。記憶にあるいかなる戦争もウォー・ゲームによって置き換えられないということは、シミュレーションがどれほど発展しても、いかなる将来の戦争もそんなものにはならないのではないかという疑いを導くのである。
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