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孫子の兵法
4 各論(2)
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十一 九地篇〈脱兎のごとく進攻せよ〉

〈九種の地勢とその戦術〉

 土地の形状とは、軍事の補助要因である。そこで軍を運用する方法には、

  1:散地(軍の逃げ去る土地)
  2:軽地(軍の浮き立つ土地)
  3:争地(敵と奪い合う土地)
  4:交地(往来の便利な土地)
  5:衢{く}地(四通八達の中心地)
  6:重地(重要な土地)
  7:泛{はん}地(軍を進めにくい土地)
  8:囲地(囲まれた土地)
  9:死地(死すべき土地)

がある。

(一)諸侯が自国の領内で戦うのが、散地である。
(二)敵国内に侵入しても、まだ深入りしていないのが、軽地である。
(三)自軍が奪い取れば味方に有利となり、敵軍が奪い取れば敵に有利になるのが、争地である。
(四)自軍も自由に行くことができ、敵軍も自在に来ることができるのが、交地である。
(五)諸侯の領地が三方に接続していて、そこに先着すれば、諸国とよしみを通じて天下の人々の支援が得られるのが、衢地である。
(六)敵国奥深く侵入し、多数の敵城を後方に背負っているのが、重地である。
(七)山林や沼沢地を踏み越えるなど、およそ進軍が難渋する経路であるのが、泛地である。
(八)それを経由して中へ入り込む通路は狭く、それを伝ってそこから引き返す通路は曲がりくねって遠く、敵が寡兵で味方の大部隊を攻撃できるのが、囲地である。
(九)突撃が迅速であれば生き延びるが、突撃が遅れればたちまち全滅するのが、死地である。

 したがって、

  1:散地では、戦闘してはならない
  2:軽地では、ぐずぐずしてはならない
  3:争地では、敵に先にそこを占拠された場合には攻めかかってはならない
  4:交地では、全軍の隊列を切り離してはならない
  5:衢地では、諸侯たちと親交を結ぶ。
  6:重地では、敵情を巻いたりせずにすばやく通り過ぎる
  7:泛地では、軍を宿営させずに先へ進める
  8:囲地では、潰走の危険を防ぐ策謀をめぐらせる。
  9:死地では、間髪をいれずに死闘する。

 昔の戦争の達人は、敵軍に前軍と後軍との連絡ができないようにさせ、大部隊と小部隊とが助け合えないようにさせ、身分の高い者と低い者とが互いに救い合わず、上下の者が互いに助け合わないようにさせ、兵士たちが離散して集合せず、集合しても整わないようにさせた。こうして、味方に有利な状況になれば行動を起こし、有利にならなければまたの機会を待ったのである。

Q:敵が秩序だった大軍でこちらを攻めようとしているときには、どのようにしてそれに対処したらよかろうか。
A:相手に先んじて、敵の大切にしているものを奪取すれば、敵はこちらの思いどおりになるだろう。戦争の実状は迅速が第一である。敵の準備中を利用して、思いがけない方法を使い、敵の備えのない所を攻撃することだ。


  孫子曰わく、
 兵を用うるには、散地あり、軽地あり、争地あり、交地あり、衢[く]地あり、重地あり、ひ[土己]地あり、囲地あり、死地あり。
 諸侯自ら其の地に戦う者を、散地と為す。
 人の地に入りて深からざる者を、軽地と為す。
 我れ得たるも亦た利、彼得るも亦た利なる者を、争地と為す。
 我れ以て往くべく、彼れ以て来たるべき者を、交地と為す。
 諸侯の地四属し、先ず至って天下の衆を得る者を、衢地と為す。
 人の地に入ること深く、城邑に背くこと多き者を、重地と為す。
 山林・険阻・沮沢、凡そ行き難きの道なる者を、[土己]地と為す。
 由りて入る所のもの隘く、従って帰る所のもの迂にして、彼れ寡にして以て吾の衆を撃つべき者を、囲地と為す。
 疾戦すれば則ち存し、疾戦せざれば則ち亡ぶ者を、死地と為す。
 是の故に、散地には則ち戦うこと無く、軽地には則ち止まること無く、争地には則ち攻むること無く、交地には則ち絶つこと無く、衢地には則ち交を合わせ、重地には則ち掠め、[土己]地には則ち行き、囲地には則ち謀り、死地には則ち戦う。


 古えの善く兵を用うる者は、能く敵人をして前後相い及ばず、衆寡相い恃まず、貴賎相い救わず、上下相い扶けず、卒離れて集まらず、兵合して斉わざらしむ。利に合えば而ち動き、利に合わざれば而ち止まる。


 敢えて問う、敵 衆整にして将[まさ]に来たらんとす。これを待つこと若何。
 曰わく、先ず其の愛する所を奪わば、則ち聴かん。兵の情は速を主とす。人の及ばざるに乗じて不虞の道に由り、其の戒めざる所を攻むるなりと。

〈敵国深く進入せよ〉

 およそ、敵国内に進行する方法としては、

 徹底的に奥深くまで進攻してしまえば、兵士が結束するから、散地で戦う迎撃軍は対抗できない。
 肥沃な土地で掠奪すれば、全軍の食料も充足する。

 慎重に兵士たちを休養させては疲労させないようにし、士気を一つにまとめ、戦力を蓄え、複雑に軍を移動させては策謀をめぐらせて、自軍の兵士たちが目的地を推測できないように細工しながら、最後に軍を八方ふさがりの状況に投げ込めば、兵士たちは死んでも敗走したりはしない。どうして死にものぐるいの勇戦が実現されないことがあろうか。士卒はともに死力を尽くす。

 兵士たちは、あまりにも危険な状況にはまりこんでしまうと、もはや危険を恐れなくなる。
 どこにも行き場がなくなってしまうと、決死の覚悟を固める。
 敵国内に深く入り込んでしまうと、一致団結する。
 逃げ場のない窮地に追いつめられてしまうと、奮戦力闘する。

 だから、そうした絶体絶命の外征軍は、ことさらに指揮官が調教しなくても、自分たちで進んで戒め合う。
 口に出して要求しなくても、期待通りに動く。
 いさかいを禁ずる約束を交わさせなくても、自主的に親しみ合う。
 軍令の罰則で脅かさなくても、任務を忠実に果たす。

 軍隊内での占いごとを禁止して、僥倖が訪れて生還できるのではないかとの疑心を取り除くならば、戦死するまで決して逃げ出したりはしない。
 わが軍の兵士たちが余分な財貨を持ち歩かないからといって、それは何も財貨を嫌ってのことではない。今ここで死ぬ以外に他の死に方を考えないからといって、それは何も長生きを嫌ってのことではない。

 決戦の命令が発せられた日には、兵士たちの座り込んでいる者は、ぽたぽたとこぼれ落ちる涙のしずくで襟をぬらし、横たわっている者は、両目からあふれ出る涙の筋が、頬を伝ってあごの先に結ぶ。こうした決死の兵士たちを、どこにも行き場のない窮地に投入すれば、全員が勇敢になるのである。

 そこで、戦争の上手な人は、たとえば率然{そつぜん}のようなものである。率然というのは、常山にいる蛇のことである。その頭を撃つと尾が助けに来るし、その尾を撃つと頭が助けに来るし、その腹を攻撃すると頭と尾とで一緒にかかってくる。

:軍隊はこの率然のようにすることができるか。
:できる。
 そもそも、呉の国の人と越の国の人とは互いに憎みあう仲であるが、それでも一緒に同じ船に乗って(呉越同舟)、川を渡り、途中で大風にあった場合には、彼らは左手と右手との関係のように密接に助け合うものである。

 こういうわけで、馬をつなぎ止め、車輪を土に埋めて陣固めをしてみても、決して充分に頼りになるものではない。軍隊を、勇者も臆病者も等しく勇敢に整えるのは、その治め方によるのである。剛強な者も柔弱な者も等しく充分な働きをするのは、土地の形勢の道理によるものである。

 だから、戦争の上手な人が、まるで手をつないでいるかのように軍隊を一体にさせ、率然のようにさせるのは、兵士たちを、戦うほかにどうしようもないような条件に置くからである。

 将軍たる者の仕事は、もの静かで奥深く、正大でよく整っている。
 士卒の耳目をうまくくらまして、軍の計画を知らせないようにする。
 そのしわざをさまざまに変え、その策謀を更新して、人々に気づかれないようにする。
 その駐屯地を転々と変え、その行路を迂回してとって、人々に推測されないようにする。
 軍隊を統率して任務を与えるときには、高いところへ登らせてからその梯子を取るように、戻りたくても戻れないようにする。
 深く外国の土地に入り込んで決戦を起こすときには、羊の群れを追いやるように、兵士たちを従順にする。
 追いやられてあちこちと往来するが、どこに向かっているかは誰にもわからない。全軍の大部隊を集めて、そのすべてを決死の意気込みにするような危険な土地に投入する。それが将軍たる者の仕事である。
 九とおりの土地の形勢に応じた変化、状況によって軍を屈伸させることの利害、そして人情の自然な道理については、充分に考えなければならない。

 およそ、敵国に進撃した場合のやり方としては、深く入り込めば団結するが、浅ければ逃げ去るものである。

 1:本国を去り、国境を越えて軍を進めた所は、絶地である。
 2:絶地の中で、四方に通ずる中心地が、衢地である。
 3:深く進入した所が、重地である。
 4:少し入っただけの所が、軽地である。
 5:背後が険しくて、前方が狭いのが、囲地である。
 6:行き場のないのが死地である。

 散地ならば、兵士たちが離散しやすいから、自分は兵士たちの心を統一しようとする。
 軽地ならば、軍がうわついているから、自分は軍隊を離れないように連続させようとする。
 争地ならば、先に得た者が有利であるから、自分は遅れている部隊を急がせようとする。
 交地ならば、通じ開けているから、自分は守備を厳重にしようとする。
 衢地ならば、諸侯たちの中心地であるから、自分は同盟を固めようとする。
 重地ならば、敵地の奥深くであるから、自分は軍の食料を絶やさないようにする。
 泛地ならば、行動が困難であるから、早く行き過ぎようとする。
 囲地ならば、逃げ道が開けられているものであるから、戦意を強固にするために、自分はその逃げ道をふさごうとする。
 死地ならば、力いっぱい戦わなければ滅亡するのだから、自分は軍隊にとても生き延びられないことを認識させようとする。

 そこで、兵士たちの心としては、

  囲まれたなら、命ぜられなくとも抵抗する。
  戦わないでおれなくなれば、激闘する。
  あまりにも危険であれば、従順になる。

(一)諸侯たちの腹のうちがわからないのでは、前もって同盟することはできない。
(二)山林・険しい地形・沼沢地などの地形がわからないのでは、軍隊を進めることはできない。
(三)その土地の案内役を使えないのでは、地形の利益を収めることはできない。

 これら三つのことは、その一つでも知らないのでは、覇王の軍ではない。

 そもそも、覇王の軍は、もし大国を討伐すれば、その大国の大部隊も集合することができない。もし威勢が敵国をおおえば、その敵国は孤立して、他国と同盟することができない。こういうわけで、天下の国々との同盟を務めることをせず、また天下の権力を自分の身に積み上げることをしないでも、自分の思いどおり勝手にふるまっていて、威勢は敵国をおおっていく。だから、敵の城も落とせるし、敵の国も破れるのである。

 ふつうのきまりを越えた重賞を施し、ふつうの定めにこだわらない禁令を掲げるなら、全軍の大部隊を働かせるのも、ただの一人を使うようなものである。

 軍隊を働かせるのは、任務を与えるだけにして、その理由を説明してはならない
 軍隊を働かせるのは、有利なことだけを知らせて、その害になることを告げてはならない

 誰にも知られずに、軍隊を滅亡すべき状況に投げ入れてこそ、はじめて滅亡を逃れる。死すべき状況に陥れてこそ、はじめて生き延びる。そもそも、兵士たちは、そうした危難に陥ってこそ、はじめて勝敗を自由にすることができるものである。


 凡そ客たるの道、深く入れば則ち専らにして主人克たず。饒野に掠むれば三軍も食に足る。謹め養いて労すること勿く、気を併わせ力を積み、兵を運らして計謀し、測るべからざるを為し、これを往く所なきに投ずれば、死すとも且[は]た北[に]げず。士人 力を尽す、勝焉んぞ得ざらんや。兵士は甚だしく陥れば則ち懼れず、往く所なければ則ち固く、深く入れば則ち拘し、已むを得ざれば則ち闘う。是の故に其の兵、修めずして戒め、求めずして得、約せずして親しみ、令せずして信なり。祥を禁じ疑いを去らば、死に至るまで之[ゆ]く所なし。吾が士に余財なきも貨を悪[にく]むには非ざるなり。余命なきも寿を悪むには非ざるなり。令の発するの日、士卒の坐する者は涕[なみだ] 襟を霑[うるお]し、偃[えん]臥する者は涕 頤[あご]に交わる。これを往く所なきに投ずれば、諸・かい[歳リ]の勇なり。


 故に善く兵を用うる者は、譬えば率然の如し。率然とは常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至り、其の尾を撃てば則ち首至り、其の中を撃てば則ち首尾倶に至る。
 敢えて問う、兵は率然の如くならしむべきか。
 曰わく可なり。夫れ呉人と越人との相い悪むや、其の舟を同じくして済[わた]りて風に遭うに当たりては、其の相い救うや左右の手の如し。是の故に馬を方[つな]ぎて輪を埋むるとも、未だ恃むに足らざるなり。勇を斉[ととの]えて一の若くにするは政の道なり。剛柔皆な得るは地の理なり。故に善く兵を用うる者、手を攜[たずさ]うるが若くにして一なるは、人をして已むを得ざらしむるなり。


 将軍の事は、静かにして以て幽[ふか]く、正しくして以て治まる。能く士卒の耳目を愚にして、これをして知ること無からしむ。其の事を易[か]え、其の謀を革[あらた]め、人をして識ること無からしむ。其の居を易え其の途を迂にし、人をして慮ることを得ざらしむ。帥[ひき]いてこれと期すれば高きに登りて其の梯を去るが如く、深く諸侯の地に入りて其の機を発すれば群羊を駆るが若し。駆られて往き、駆られて来たるも、之[ゆ]く所を知る莫し。三軍の衆を聚めてこれを険に投ずるは、此れ将軍の事なり。九地の変、屈伸の利、人情の利は、察せざるべからざるなり。


 凡そ客たるの道は、深ければ則ち専らに、浅ければ則ち散ず。
 国を去り境を越えて師ある者は絶地なり。四達する者は衢地なり。入ること深き者は重地なり。入ること浅き者は軽地なり。背は固にして前は隘なる者は囲地なり。往く所なき者は死地なり。
 是の故に散地には吾れ将[まさ]に其の志を一にせんとす。軽地には吾れ将にこれをして属[つづ]かしめんとす。争地には吾れ将に其の後を趨[うなが]さんとす。交地には吾れ将に其の守りを謹しまんとす。衢地には吾れ将に其の結びを固くせんとす。重地には吾れ将に其の食を継がんとす。[土己]地には吾れ将に其の塗[みち]を進めんとす。囲地には吾れ将に其の闕[けつ]を塞がんとす。死地には吾れ将にこれに示すに活[い]きざるを以てせんとす。
 故に兵の情は、囲まるれば則ち禦ぎ、已むを得ざれば則ち闘い、過ぐれば則ち従う。


 是の故に諸侯の謀を知らざる者は、予め交わること能わず。山林・険阻・沮沢の形を知らざる者は、軍を行[や]ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず。此の三者、一を知らざれば、覇王の兵には非ざるなり。夫れ覇王の兵、大国を伐つときは則ち其の衆 聚まることを得ず、威 敵に加わるときは則ち其の交 合することを得ず。是の故に天下の交を争わず、天下の権を養わず、己れの私を信[の]べて、威は敵に加わる。故に其の城は抜くべく、其の国は堕[やぶ]るべし。無法の賞を施し、無政の令を懸くれば、三軍の衆を犯[もち]うること一人を使うが若し。これを犯うるに事を以てして、告ぐるに言を以てすること勿かれ。これを亡地に投じて然る後に存し、これを死地に陥れて然る後に生く。夫れ衆は害に陥りて然る後に能く勝敗を為す。

〈はじめは処女のごとく、後は脱兎のごとく〉

 戦争を遂行する上での要点は、敵の意図に順応して調子を合わせるところにある。
 敵の進路と行程に歩調を合わせて進軍して、敵軍と同一の目的地を目指し、千里もの遠方で正確に会敵して敵将を倒すのは、これぞ鮮やかな仕事ぶりと称するのである。

 こうしたわけだから、ついに開戦の政令が発動された日には、

  国境一帯の関所をことごとく封鎖する。
  通行許可証を無効にする。
  敵国の使節の入国を禁止する。
  廟堂の上で廟議をおごそかに行なって、戦争計画に決断を下す。

 いよいよ自軍が国境地帯に進出し、敵側が不意を衝かれて防衛線に間隙を生じたならば、

  必ずそこから迅速に侵入する。 
  敵国がぜひとも防衛したがる地点に、先制の偽装攻撃をかける。
  出動してくる敵軍と、ある日時・ある地点で会敵しようとひそかに心を決める。
  先制攻撃地点をひそかに離脱し、全軍黙って敵軍の進撃路に調子を合わせて進む。
  予定通りに敵軍を捕捉して会戦に入り、一挙に戦争の勝敗を決する。

 こうしたわけで、最初のうちは乙女のようにしおらしく控えていて、いざ敵側が侵入口を開けたとたん、あとは追っ手を逃れるウサギのように、一目散に敵国のふところ深く侵攻してしまえば、もはや敵は防ぎようがないのである。


 故に兵を為すの事は、敵の意を順詳するに在り。并一にして敵に向かい、千里にして将を殺す、此れを巧みに能く事を成す者と謂うなり。是の故に政の挙なわるるの日は、関を夷[とど]め符を折[くだ]きて其の使を通ずること無く、廊廟の上にきび[厂艸属]しくして以て其の事を誅[せ]む。敵人開闔[かいこう]すれば必らず亟[すみや]かにこれに入り、其の愛する所を先きにして微[ひそ]かにこれと期し、践墨[せんもく]して敵に随[したが]いて以て戦事を決す。是の故に始めは処女の如くにして、敵人 戸を開き、後は脱兎の如くにして、敵人 拒ぐに及ばず。




十二(十三) 用間篇〈スパイこそ最重要員〉

〈敵情を察知せよ〉

 およそ十万規模の軍隊を編成し、千里の彼方に外征するとなれば、民衆の出費や政府の支出は、日ごとに千金をも消費するほどになり、遠征軍を後方で支えるために朝野を問わずあわただしく動き回り、物資輸送に動員された人民は補給路の維持に疲れ苦しんで、農事に専念できない者たちは七十万戸にも達する。

 こうした苦しい状態で、数年にもおよぶ持久戦を続けたのちに、たった一日の決戦で勝敗を争うのである。

 それにもかかわらず、間諜に爵位や俸禄や賞金を与えることを惜しんで、決戦を有利に導くために敵情を探知しようとしないのは、不仁の最たるものである。そんなことでは、とても民衆を統率する将軍とはいえず、君主の補佐役ともいえず、勝利の主宰者ともいえない。

 だから、聡明な君主や知謀にすぐれた将軍が、軍事行動を起こして敵に勝ち、抜群の成功を収める原因は、あらかじめ敵情を察知するところにこそある。事前に情報を知ることは、鬼神から聞き出して実現できるものではなく、天界の事象になぞらえて実現できるものでもなく、天道の理法とつきあわせて実現することもできない。必ず、人間の知性によってのみ獲得できるのである。


  孫子曰わく、
 凡そ師を興こすこと十万、師を出だすこと千里なれば、百姓の費、公家の奉、日に千金を費し、内外騒動して事を操[と]るを得ざる者、七十万家。相い守ること数年にして、以て一日の勝を争う。而るに爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり。人の将に非ざるなり。主の佐に非ざるなり。勝の主に非ざるなり。故に明主賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出ずる所以の者は、先知なり。先知なる者は鬼神に取るべからず。事に象るべからず。度に験すべからず。必らず人に取りて敵の情を知る者なり。

〈五種類のスパイ〉

 そこで、間諜の使用法には五種類ある。

  1:因間
  2:内間
  3:反間
  4:死間
  5:生間

 これら五種の間諜が平行して諜報活動を行ないながら、互いにそれぞれが位置する情報の伝達経路を知らずにいるのが、神妙な統括法(神紀)と称し、人民を治める君主の貴ぶべき至宝なのである。

(五)生間というのは、繰り返し敵国に侵入しては生還して情報をもたらすものである。
(一)因間というのは、敵国の民間人を手づるに諜報活動をさせるものである。
(二)内間というのは、敵国の官吏を手づるに諜報活動をさせるものである。
(三)反間というのは、敵国の間諜を手づるに諜報活動をさせるものである。
(四)死間というのは、虚偽の軍事計画を部外で実演して見せ、配下の間諜にその情報を告げさせておいて、あざむかれて謀略に乗ってくる敵国の出方を待ち受けるものである。


 故に間を用うるに五あり。郷間あり。内間あり。反間あり。死間あり。生間あり。五間倶に起こって其の道を知ること莫し、是れを神紀と謂う。人君の宝なり。
 郷間なる者は其の郷人に因りてこれを用うるなり。
 内間なる者は其の官人に因りてこれを用うるなり。
 反間なる者は其の敵間に因りてこれを用うるなり。
 死間なる者は誑[きょう]事を外に為し、吾が間をしてこれを知って敵に伝えしむるなり。
 生間なる者は反[かえ]り報ずるなり。

〈スパイを使いこなす〉

 そこで、全軍の中でも、

  君主や将軍との親密さでは間諜が最も親しい。
  恩賞では間諜に対するものが最も厚い。
  軍務では間諜のあつかうものが最も秘密裏に進められる。

 君主や将軍が俊敏な思考力の持ち主でなければ、軍事に間諜を役立てることはできない。
 部下への思いやりが深くなければ、間諜を期待どおり忠実に働かせることができない。
 微妙なことまで察知する洞察力を備えていなければ、間諜のもたらす情報の中の真実を選び出すことができない。

 何と測りがたく、奥深いことか。およそ軍事の裏側で、間諜を利用していない分野など存在しないのである。

 君主や将軍が間諜と進めていた諜報・謀略活動が、まだ外部に発覚するはずの段階で他の経路から耳に入った場合には、その任務を担当していて秘密を漏らした間諜と、その極秘情報を入手して通報してきた者とは、機密保持のため、ともに死罪とする。

 撃ちたいと思う軍隊・攻めたいと思う城・殺したいと思う人物については、必ずその

  官職を守る将軍
  左右の近臣
  奏聞者
  門を守る者
  宮中を守る役人

の姓名をまず知って、味方の間諜に必ずさらに追求して、それらの人物のことを調べさせる。

 敵の間諜でこちらにやってきてスパイをしている者は、つけこんでそれに利益を与え、うまく誘ってこちらにつかせる。そこで反間として用いることができる。
 反間によって敵情がわかるから、因間や内間も使うことができる。
 反間によって敵情がわかるから、死間を使って偽りごとをした上で、敵方に告げさせることができる。
 反間によって敵情がわかるから、生間を計画どおりに働かせることができる。

 五とおりの間諜の情報は、君主が必ずそれをわきまえるが、それが知れるもとは、必ず反間によってである。そこで、反間はぜひとも厚遇すべきである。

 昔、殷王朝が始まるときには、建国の功臣伊摯が間諜として敵の夏の国に入り込んだ。
 周王朝が始まるときには、建国の功臣呂牙が間諜として敵の殷の国に入り込んだ。
 だから、聡明な君主やすぐれた将軍であってこそ、はじめてすぐれた知恵者を間諜として、必ず偉大な功業を成し遂げることができるのである。この間諜こそ戦争のかなめであり、全軍がそれに頼って行動するものである。


 故に三軍の親は間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、事は間より密なるは莫し。聖智に非ざれば間を用うること能わず、仁義に非ざれば間を使うこと能わず、微妙に非ざれば間の実を得ること能わず。微なるかな微なるかな、間を用いざる所なし。間事未だ発せざるに而も先ず聞こゆれば、其の間者と告ぐる所の者と、皆な死す。


 凡そ軍の撃たんと欲する所、城の攻めんと欲する所、人の殺さんと欲する所は、必らず先ず其の守将・左右・謁者・門者・舎人の姓名を知り、吾が間をして必らず索[もと]めてこれを知らしむ。


 敵間の来たって我れを間する者、因りてこれを利し、導きてこれを舎せしむ。故に反間得て用うべきなり。是れに因りてこれを知る。故に郷間・内間 得て使うべきなり。是れに因りてこれを知る。故に死間 誑事を為して敵に告げしむべし。是れに因りてこれを知る。故に生間 期の如くならしべし。五間の事は主必らずこれを知る。これを知るは必ず反間に在り。故に反間は厚くせざるべからざるなり。


 昔、殷の起こるや、伊摯[いし] 夏に在り。周の興こるや、呂牙 殷に在り。故に惟だ明主賢将のみ能く上智を以て間者と為して必らず大功を成す。此れ兵の要にして、三軍の恃みて動く所なり。


十三(十二) 火攻篇〈軽々しく戦争を起こすな〉

〈五種類の火攻め〉

 およそ火を用いる攻撃法には五種類ある。

  1:火人(兵士を焼きうちする)
  2:火積(野外の集積所に貯蔵されている物資を焼き払う)
  3:火輜(物資輸送中の輜重部隊を焼きうちする)
  4:火庫(屋内に物資を保管する倉庫を焼き払う)
  5:火隧(敵の補給路、行軍路、橋梁などを炎上させる)

 火攻めの実行には、自軍に内応したり、敵軍内に紛れ込んで放火する破壊工作員が当たる。内応者や破壊工作員は、必ず前もって用意しておく。

 火を放つには、適当な時節がある。放火後、火勢を盛んにするには、適切な日がある。
 火をつけるのに都合のよい時節とは、天気が乾燥している時候のことである。
 火災を大きくするのに都合のよい日というのは、月の宿る場所が、箕・壁・翼・軫の星座と重なる日のことである。およそ、これら四種類の日は、風が盛んに吹きはじめる日である。

 およそ、火攻めは、必ず五とおりの火の変化に従って、それに呼応して兵を出す。

(一)味方の放火した火が、敵の陣営の中で燃えだしたときには、すばやくそれに呼応して、外から兵をかける。
(二)火が燃えだしたのに敵軍が静かな場合には、しばらく待つことにして、すぐに攻めてはならない。その火勢にまかせて様子をうかがい、攻撃してよければ攻撃し、攻撃すべきでなければやめる。
(三)火を外からかけるのに都合がよければ、陣営の中で放火するのを待たないで、適当な時を見て火をかける。
(四)風上から燃えだしたときには、風下から攻撃してはならない
(五)昼間の風は利用するが、夜の風はやめる

 およそ、軍隊では必ずこうした五とおりの火の変化のあることをわきまえ、技術を用いてそれを守るべきである。


  孫子曰わく、
 凡そ火攻に五あり。
 一に曰わく火人、二に曰わく火積、三に曰わく火輜、四に曰わく火庫、五に曰わく火隊。
 火を行なうには必ず因あり、火をと[火票]ばすには必ず素より具[そな]う。火を発するに時あり、火を起こすに日あり。時とは天の燥[かわ]けるなり。日とは宿の箕・壁・翼・軫に在るなり。凡そ此の四宿の者は風の起こるの日なり。


 凡そ火攻は、必ず五火の変に因りてこれに応ず。
 火の内に発するときは則ち早くこれに外に応ず。
 火の発して其の兵の静かなる者は、待ちて攻むること勿く、其の火力を極めて、従うべくしてこれに従い、従うべからざるして止む。
 火 外より発すべくんば、内に待つことなく、時を以てこれを発す。
 火 上風に発すれば、下風を攻むること無かれ。
 昼風は従い夜風は止む。
 凡そ軍は必らず五火の変あることを知り、数を以てこれを守る。

〈火攻めは水攻めにまさる〉

 だから、火を攻撃の補助手段にするのは、将軍の頭脳の明敏さによる。

 水を攻撃の補助手段にするのは、軍の総合戦力の強大さによる。

 水攻めは敵軍を分断することはできても、敵軍の戦力を奪い去ることはできない。


 故に火を以て攻を佐[たす]くる者は明なり。水を以て攻を佐くる者は強なり。水は以て絶つべきも、以て奪うべからず。

〈死んだ者は帰ってこない〉

 そもそも戦闘に勝利を収め、攻撃して戦果を獲得したにもかかわらず、それがもたらす戦略的成功を追求しないでだらだら戦争を続けるのは、国家の前途に対して不吉な行為である。これを、国力を浪費しながら外地でぐずぐずしている、と名付ける。

 そこで、先を見通す君主は、すみやかな戦争の勝利と終結を熟慮する。
 国を利する将軍は、戦争を勝利の中に短期決着させる戦略的成功を追求する。

 利益にならなければ、軍事行動を起こさない。
 勝利を獲得できなければ、軍事力を使用しない。
 危険が迫らなければ、戦闘しない。

 君主は、一時の怒りの感情から軍を興して戦争を始めてはならない。
 将軍は、一時の憤激に駆られて戦闘してはならない。
 国家の利益に合えば軍事力を使用する。国家の利益に合致しなければ軍事力の行使を思いとどまる。
 怒りの感情はやがて和らいで、また楽しみ喜ぶ心境に戻れる。憤激の情もいつしか消えて、再び快い心境に戻れる。
 しかし、軽はずみに戦争を始めて敗北すれば、滅んでしまった国家は決して再興できず、死んでいった者たちも二度と生き返らせることはできない。

 だから、先見の明を備える君主は、軽々しく戦争を起こさぬよう、慎重な態度で臨む。
 国家を利する将軍は、軽率に軍を戦闘に突入させないように自戒する。
 これこそが、国家を安泰にし、軍隊を保全する方法なのである。


 夫れ戦勝攻取して其の功を修めざる者は凶なり。命[なづ]けて費留と曰う。故に明主はこれを慮り、良将はこれを修め、利に非ざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危うきに非ざれば戦わず。主は怒りを以て師を興こすべからず。将は慍[いきどお]りを以て戦いを致すべからず。利に合えば而ち動き、利に合わざれば而ち止まる。怒りは復た喜ぶべく、慍りは復た悦ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警[いまし]む。此れ国を安んじ軍を全うするの道なり。


by ISHIHARA Mitsumasa 石原光将