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孫子の兵法
3 各論(1)
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七 軍争篇(戦場にいかに先着するか)

〈強行軍は危険な賭け〉

 およそ軍を運用する方法としては、将軍が君主の出撃命令を受けてから、軍を編成し兵士を統率して、敵軍と対陣して静止するまでの過程で、戦場への軍の先着を争う「軍争」ほど困難な作業はない。

 軍争の難しさは、迂回路を直進の近道に変え、憂いごとを利益に転ずる点にある。だから、一見戦場に遠い迂回路を取りながら、敵を利益で誘い出してきて、敵よりあとに出発しながら戦場を手元に引き寄せて敵よりも先に戦場に到着するというのは、迂回路を直進の近道に変える計謀を知るものである。

 軍争はうまくやれば利益となるが、軍争は下手をすると危険をもたらす。もし全軍をあげて戦場に先着する利益を得ようと競争すれば、大軍では機敏に動けず、先に戦場に到着できない。軍全体にかまわずに利益を得ようと競争すれば、輜重部隊は後方に捨て去られてしまう。

 こうしたわけで、重い兜を脱いで背負って走り、昼夜休まずに走行距離を倍にして強行軍を続け、百里かなたで利益を得ようと競争すれば、上軍・中軍・下軍の三将軍そろって捕虜にされる。強健な兵士は先になり、疲労した兵士は落後して、その結果は十人中一人がたどり着くにすぎない。

 同じ方法で、五十里かなたで利益を得ようと競争すれば、先鋒の上将軍を敗死させ、その比率は半分が到着するにとどまる。

 同じ方法で、三十里かなたで利益を得ようと競争すれば、三分の二だけが到着する。

 このように、軍が輸送部隊を失えば敗亡するし、兵糧を失えば敗亡するし、財貨の蓄えを失えば敗亡するのである。

 そこで、諸侯たちの腹の内がわからないのでは、前もって同盟することはできない。

 山林・険しい地形・沼沢地などの地形がわからないのでは、軍隊を進めることはできない。

 その土地の案内役を使えないのでは、地形の利益を収めることはできない。


  孫子曰わく、
 凡そ用兵の法は、将 命を君より受け、軍を合し衆を聚[あつ]め、和を交えて舎[とど]まるに、軍争より難きは莫し。軍争の難きは、迂を以て直と為し、患を以て利と為す。故に其の途を迂にしてこれを誘うに利を以てし、人に後れて発して人に先きんじて至る。此れ迂直の計を知る者なり。
 故に軍争は利たり、軍争は危たり。軍を挙げて利を争えば則ち及ばず、軍を委[す]てて利を争えば則ち輜重捐[す]てらる。是の故に、甲を巻きて趨[はし]り、日夜処[お]らず、道を倍して兼行し、百里にして利を争うときは、則ち三将軍を擒[とりこ]にせらる。勁[つよ]き者は先きだち、疲るる者は後れ、其の率 十にして一至る。五十里にして利を争うときは、則ち上将軍を蹶[たお]す。其の率 半ば至る。三十里にして利を争うときは、則ち三分の二至る。是れを以て軍争の難きを知る。
 是の故に軍に輜重なければ則ち亡び、糧食なければ則ち亡び、委積なければ則ち亡ぶ。


 故に諸侯の謀を知らざる者は、予め交わること能わず。山林・険阻・沮沢の形を知らざる者は、軍を行[や]ること能わず。郷導を用いざる者は、地の利を得ること能わず。

〈変幻自在の進撃〉

 そこで、軍事行動は敵をあざむくことを基本とし、利益にのみ従って行動し、分散と集合の戦法を用いて臨機応変の処置を取るのである。

 だから、疾風のように迅速に進撃し、林のように静まり返って待機し、火が燃え広がるように急激に侵攻し、山のように居座り、暗闇のように実態を隠し、雷鳴のように突然動きだし、偽りの進路を敵に指示するには部隊を分けて進ませ、占領地を拡大するときは要地を分守させ、権謀をめぐらせつつ機動する。【其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷震、掠郷分衆、廓地分利、懸権而動】

 迂回路を直進の近道に変える手を敵に先んじて察知するのは、これこそが軍争の方法なのである。


 故に兵は詐を以て立ち、利を動き、分合を以て変を為す者なり。故に其の疾[はや]きこと風の如く、其の徐[しずか]なることは林の如く、侵掠することは火の如く、動かざることは山の如く、知り難きことは陰の如く、動くことは雷の震うが如くにして、郷を掠[かす]むるには衆を分かち郷[むか]うところを指[しめ]すに衆を分かち〕、地を廓[ひろ]むるには利を分かち、権を懸けて而して動く。迂直の計を先知する者は〔〔勝つ。〕〕此れ軍争の法なり。

〈鳴り物や旗〉

 古い兵法書には「口で言ったのでは聞こえないから、太鼓や鐘の鳴り物を備える。指し示しても見えないから、旗やのぼりを備える」とある。

 そもそも、鳴り物や旗の類というのは、兵士たちの耳目を統一するものである。兵士たちが集中統一されているからには、勇敢な者でも勝手に進むことはできず、臆病な者でも勝手に退くことはできない。したがって、乱れに乱れた混戦状態になっても、乱されることがなく、曖昧模糊で前後もわからなくなっても打ち破られることがない。これが大部隊を働かせる方法である。

 だから、夜の戦いには火や太鼓をたくさん使い、昼の戦いには旗やのぼりをたくさん使うのは、兵士たちの耳目を変えさせるためのことである。


 軍政に曰わく、「言うとも相い聞えず、故に鼓鐸を為[つく]る。視[しめ]すとも相い見えず、故に旌旗を為る」と。
 夫れ金鼓・旌旗なる者は人の耳目を一にする所以なり。人既に専一なれば、則ち勇者も独り進むことを得ず、怯者も独り退くことを得ず。紛々紜々[ふんふんうんうん]、闘乱して見るべからず、渾渾沌沌、形円くてして敗るべからず。此れ衆を用うるの法なり。
 故に夜戦に火鼓多く昼戦に旌旗多きは、人の耳目を変うる所以なり。

〈敵の軍隊の気力を奪う〉

 こうして敵兵の耳目も欺くことができるのだから、敵の軍隊の気力を奪い取ることができ、敵の将軍の心を奪い取ることもできる。

 そういうわけで、(朝方の気力は鋭く、昼頃の気力は衰え、暮れ方の気力は尽きてしまうものであるから)戦争の上手な人は、その鋭い気力を避け、衰えて休息を求めているところを撃つが、それが敵の軍隊の気力を奪い取って、気力について打ち勝とうとするものである。

 また、治まり、整った状態で、混乱した相手に当たり、冷静な状態でざわめいた相手に当たるが、それが敵の将軍の心を奪い取って、心について打ち勝とうとするものである。

 また、戦場の近くにいて、遠くからやってくるのを待ちうけ、安楽にしていて疲労した相手に当たり、腹いっぱいでいて飢えた相手に当たるが、それは戦力について打ち勝とうとするものである。

 また、よく整備した旗並びには戦いを仕掛けることをせず、堂々と充実した陣立てには攻撃をかけないが、それは敵の変化について打ち勝とうとするものである。

 ゆえに、戦争の原則としては、高い陵にいる敵を攻めてはならず、丘を背にして攻めてくる敵は迎え撃ってはならず、偽りの誘いの退却は追いかけてはならず、鋭い気勢の敵兵には攻めかけてはならず、こちらを釣りにくる餌の兵士には食いついてはならない。

 故に三軍には気を奪うべく、将軍には心を奪うべし。
 是の故に朝の気は鋭、昼の気は惰、暮れの気は帰。故に善く兵を用うる者は、其の鋭気を避けて其の惰帰を撃つ。此れ気を治むる者なり。
 治を以て乱を待ち、静を以て譁[か]を待つ。此れ心を治むる者なり。
 近きを以て遠きを待ち、佚を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ。此れ力を治むる者なり。
 正々の旗を邀[むか]うること無く、堂々の陳[じん=陣]を撃つこと勿し。此れ変を治むる者なり。




八 九変篇(指揮官いかにあるべきか)

〈臨機応変に対処する〉

 およそ軍隊を運用する方法としては、将軍が君主の出動命令を受けて、軍を編成し、兵士を統率しながら進撃するにあたり、

(一)ヒ地:足場の悪い土地には、宿営してはならない。
〔大部隊の行軍が渋滞し、攻撃を受けても迅速な対応が難しいから〕

(二)衢地:他の国々と三方で接続している土地では、天下の諸侯と親交を結ぶ。
〔地の利を生かして諸国に使節を派遣し、敵国を国際的孤立に追い込む〕

(三)絶地:故国から遠く離れた土地には、とどまらず素早く通り過ぎる。
〔本国からの補給が困難なため、長期戦を避け、短期決戦を行なう〕

(四)囲地:背後が三方とも険しく、前方が細い出口になっている土地では、脱出の計謀をめぐらせる。
〔前方に開いている通路に守備隊を派遣して封鎖した上で、後方に撤退する〕

(五)死地:背後が三方とも険しく、前方の細い出口に敵が待っている土地では、必死に力戦する。
〔全軍一丸となって出口から突出して、切り抜ける〕

(六)道路には、そこを経由してはならない道路がある。
〔行軍が渋滞する難所があって、浅く侵入すれば難所の手前で行軍が滞り、
 戦闘部隊が無理にその難所を越えて深入りすると分断されてしまう道。
 後続部隊との接続を確保しようとすると立ち止まると捕虜にされてしまう〕

(七)敵軍には、それを攻撃してはならない敵軍がある。
〔兵力上は、正面攻撃によって撃破できる目算が充分立っても、
   他にもっと巧妙な手があって、労せずに撃破できる可能性のある軍〕

(八)城には、それを攻略してはならない城がある。
〔1兵力上は充分攻め落とせるが、そこから先の前進に利益なく、守りきれない
 2力攻してみても攻略できそうにもなく、前方で勝利を収めれば自然に降伏し、
  勝利できなくても後方で自軍の害とならない城〕

(九)土地には、そこを争奪してはならない土地がある。
〔水や食料が得られない劣悪な環境で、奪い取ってみても長くは占領維持できない〕

 君命には、それを受諾してはならない君命がある。だから、将軍の中で九変(九種の応変の対処法)が持つ利益に通暁する者こそは、軍隊の運用法を真にわきまえているのである。

 将軍でありながら九変の利益に精通しない者は、たとえ戦場の地形を知ってはいても、その地形がもたらす利益をわがものにすることができない。

 軍隊を統率していながら九変の術策を身につけていないようでは、五種の地形への対処法が持つ利益を観念的に知ってはいても、いざその場になると兵士たちの力を存分に駆使することはできない。


  孫子曰わく、
 凡そ用兵の法は、高陵には向かうこと勿かれ、背丘には逆[むか]うること勿かれ、絶地には留まること勿かれ、佯[しょう]北には従うこと勿かれ、鋭卒には攻むること勿かれ、餌兵には食らうこと勿かれ、帰師には遏むること勿かれ、囲師には必らず闕[か]き、窮寇には迫ること勿かれ。此れ用兵の法なり。


 塗[みち]に由らざる所あり。軍に撃たざる所あり。城に攻めざる所あり。地に争わざる所あり。君命に受けざる所あり。


 故に将 九変の利に通ずる者は、兵を用うることを知る。
 将 九変の利に通ぜざる者は、地形を知ると雖も、地の利を得ること能わず。兵を治めて九変の術を知らざる者は、五利を知ると雖も、人の用を得ること能わず。

〈利と害の両面で考える〉

 こうしたわけで、智者の思慮は、ある一つの事柄を考える場合にも、必ず利と害との両面をつき混ぜて洞察する。利益になる事柄に害の側面をも交えて考えるならば、その事業は必ずねらいどおりに達成できる。害となる事柄に利益の側面も合わせて計り考えるならば、その心配も消すことができる。

 そうしたわけで、諸侯の意思を自国の意図の前に屈服させるには、その害悪ばかりを強調する。諸侯を使役するには、損害を顧みないほど魅力的な事業に乗り出させる。諸侯を奔走させるには、害の側面を隠して利益ばかりを示す手を使う。

 そこで、戦争の原則としては、敵がやってこないことをあてにするのではなく、いつやってきてもいいような備えがこちらにあることをあてにする。敵が攻撃してこないことをあてにするのではなく、攻撃できないような態勢がこちらにあることをあてにするのである。


 是の故に、智者の慮は必らず利害に雑[まじ]う。利に雑りて而[すなわ]ち務め信なるべきなり。害に雑りて而ち患い解くべきなり。


 是の故に、諸侯を屈する者は害を以てし、諸侯を役[えき]する者は業を以てし、諸侯を趨[はし]らす者は利を以てす。


 故に用兵の法は、其の来たらざらるを恃[たの]むこと無く、吾れの以て待つ有ることを恃むなり。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むべからざる所あるを恃むなり。

〈指揮官五つの危険〉

 そこで、将軍には五つの危険がつきまとう。

(一)決死の勇気だけで思慮に欠ける者は、殺される。
(二)生き延びることしか頭になく勇気に欠ける者は、捕虜にされる。
(三)短気で怒りっぽい者は、侮辱されて計略に引っかかる。
(四)清廉潔白で名誉を重んじる者は、侮辱されて罠に陥る。
(五)兵士をいたわる人情の深い者は、兵士の世話に苦労が絶えない。

 およそこれら五つは、将軍としての過失であり、軍隊を運営する上で災害をもたらす事柄である。軍隊を滅亡させ、将軍を敗死させる原因は、必ずこれら五つの危険のどれかにある。充分に明察しなければならない。


 故に将に五危あり。必死は殺され、必生は虜にされ、忿速は侮られ、廉白は辱められ、愛民は煩さる。凡そ此の五つの者は将の過ちなり、用兵の災いなり。軍を覆し将を殺すは必らず五危を以てす。察せざるべからざるなり。




九 行軍篇〈敵情を見抜く〉

〈行軍の秘訣〉

 およそさまざまな地形の上に軍隊を配置し、敵情を偵察するのに、

(一)山を越えるには谷沿いに進み、高みを見つけては高地に休息場所を占める。戦闘に入る際には高地から攻め下るようにして、決して自軍より高い地点を占拠する敵に向かって攻め上がったりしてはならない。これが山岳地帯にいる軍隊についての注意である。

(二)川を渡り終えたならば、必ずその川から遠ざかる。敵が川を渡って攻撃してきたときには、敵軍がまだ川の中にいる間に迎え撃ったりせず、敵兵の半数を渡らせておいてから攻撃するのが有利な戦法である。渡河してくる敵と戦闘しようとする場合は、川岸まで出かけて敵を攻撃してはならない。これが河川のほとりにいる軍隊についての注意である。

(三)沼沢地を越える場合には、素早く通過するようにして、そこで休息したりしてはならない。もし敵と遭遇し、沼沢地の中で戦う事態になったならば、飲料水と飼料の草がある近辺を占めて、森林を背に配して布陣せよ。これが沼沢地にいる軍隊についての注意である。

(四)平地では、足場のよい平坦な場所を占めて、丘陵を右後方におき、低地を前方に、高みを後方に配して布陣せよ。これが平地にいる軍隊についての注意である。

 およそこの四種の地勢にいる軍隊に関する戦術的利益こそは、黄帝が四人の帝王に打ち勝った原因なのである。

 およそ、軍隊をとどめるには、

  高地はよいが低地は悪い。
  日当たりのよいところがすぐれるが、日当たりの悪い所は劣る。

 健康に留意して、水や草の豊富な場所におり、軍隊に種々の疾病が起こらないのが、必勝の軍である。

 丘陵や堤防などでは、必ずその東南にいて、それが背後と右手となるようにする。これが戦争の利益になることで、地形の援助である。

 上流が雨で、川が泡だって流れているときは、洪水の恐れがあるから、もし渡ろうとするなら、その流れの落ち着くのを待ってからにせよ。

 およそ地形に、絶壁の谷間(絶澗)・自然の井戸(天井)・自然の牢獄(天牢)・自然の取り網(天羅)・自然の陥し穴(天陥)・自然のすきま(天隙)のあるときは、必ず速くそこを立ち去って、近づいてはならない。こちらではそこから遠ざかって、敵にはそこに近づくように仕向ける。こちらではその方に向かい、敵はそこが背後になるように仕向ける。

 軍隊の近くに、険しい地形・池・窪地・芦の原・山林・草木の繁茂したところがあるときには、必ず慎重に繰り返して捜索せよ。これらは伏兵や偵察隊のいる場所である。

 敵が自軍の近くにいながら平然と静まり返っているのは、彼らが占める地形の険しさを頼りにしているのである。

 敵が自軍から遠く離れているにもかかわらず、戦いを仕掛けて、自軍の進撃を願うのは、彼らの戦列を敷いている場所が平坦で有利だからである。

 多数の木立がざわめき揺らぐのは、敵軍が森林の中を移動して進軍してくる。
 あちこちに草を結んで覆い被せてあるのは、伏兵の存在を疑わせようとしている。
 草むらから鳥が飛び立つのは、伏兵が散開している。
 獣が驚いて走り出てくるのは、森林に潜む敵軍の奇襲攻撃である。

 砂塵が高く舞い上がって、筋の先端がとがっているのは、戦車部隊が進撃してくる。
 砂塵が低く垂れ込めて、一面に広がっているのは、歩兵部隊が進撃してくる。
 砂塵があちらこちらに分散して、細長く筋を引くのは、薪を集めている
 砂塵の量が少なくて行ったり来たりするのは、設営隊が軍営を張る作業をしている。

 敵の軍使の口上がへりくだっていて、防備が増強されているのは、進撃の下工作。
 敵の軍使の口上が強硬で、先頭部隊が侵攻してくるのは、退却の下工作。
 隊列から軽戦車が真っ先に抜け出して、敵軍の両側を警戒しているのは、行軍隊形を解いて陣立てをしている。

 敵の急使が、窮迫した事情もないのに和睦を懇願してくるのは、油断させようとする陰謀である。
 伝令があわただしく走り回って、各部隊を整列させているのは、会戦を決意している。
 敵の部隊が中途半端に進撃してくるのは、自軍を誘い出そうとしている。

 兵士が杖をついて立っているのは、その軍が飢えて弱っている。
 水くみが水をくんで真っ先に飲むのは、その軍が飲料に困っている。
 利益を認めながら進撃してこないのは、疲労している。
 鳥がたくさん止まっているのは、その陣所に人がいない
 夜に呼び叫ぶ声のするのは、その軍が臆病で怖がっている。
 軍営のがしいのは、将軍に威厳がない
 旗が動揺しているのは、その備えが乱れた
 役人が腹を立てているのは、その軍がくたびれている
 馬に兵糧米を食べさせ、兵士に肉食させ、軍の鍋釜の類はみな打ち壊して、その幕舎に帰ろうともしないのは、行きづまって死にものぐるいになった敵である。
 ねんごろにおずおずと物静かに兵士たちと話をしているのは、みんなの心が離れている。
 しきりに賞を与えているのは、その軍の士気がふるわなくて困っている。
 しきりにしているのは、その軍がれている。
 はじめは乱暴に扱っておきながら、あとにはその兵士たちの離反を恐れるのは、考えの行き届かない極みだ。
 わざわざやってきて贈り物を捧げて謝るというのは、しばらく軍を休めたい。
 敵軍がいきり立って向かってきながら、しばらくしても合戦せず、また撤退もしないのは、必ず慎重に観察せよ。

 戦争は兵員が多いほどよいというものではない。ただ、猛進しないようにして、わが戦力を集中して敵情を考えはかっていくなら、十分に勝利を収めることができよう。

 そもそも、よく考えることもしないで敵を侮っている者は、きっと敵の捕虜にされるであろう。

 兵士たちがまだ将軍に親しみなついていないのに懲罰を行なうと、彼らは心服しない。心服しないと働かせにくい。ところが、兵士たちがもう親しみなついているのに懲罰を行なわないでいると、威令がふるわず、彼らを働かせることはできない。だから、軍隊では御徳でなつけ、刑罰で統制する。これを必勝の軍という。

 法令がふだんからよく守られていて、それで兵士たちに命令するのなら、兵士たちは服従する。法令がふだんからよく守られていないのに、それで兵士たちに命令するのでは、兵士たちは服従しない。法令がふだんから誠実なものは、民衆とぴったり心が一つになっているのである。


  孫子曰わく、
 凡そ軍を処[お]き敵を相[み]ること。
 山を絶つには谷に依り、生を視て高きに処り、隆[たか]き戦いては登ること無かれ。此れ山に処るの軍なり。
 水を絶てば必らず水に遠ざかり、客 水を絶ちて来たらば、これを水の内に迎うる勿く、半ば済[わた]らしめてこれを撃つは利なり。戦わんと欲する者は、水に附きて客を迎うること勿かれ。生を視て高きに処り、水流を迎うること無かれ、此れ水上に処るの軍なり。
 斥沢を絶つには、惟だ亟[すみや]かに去って留まること無かれ。若し軍を斥沢の中に交うれば、必らず水草に依りて衆樹を背[はい]にせよ。此れ斥沢に処るの軍なり。
 平陸には易に処りて而して高きを右背にし、死を前にして生を後にせよ。此れ平陸に処るの軍なり。
 凡そ此の四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。


 凡そ軍は高きを好みて下[ひく]きを悪[にく]み、陽を貴びて陰を賎しむ。生を養いて実に処り、軍に百疾なきは、是れを必勝と謂う。丘陵堤防(堤はこざとへん)には必らず其の陽に処りて而してこれを右背にす。此れ兵の利、地の助けなり。


 上に雨ふりて水沫至らば、渉らんと欲する者は、其の定まるを待て。


 凡そ地に絶澗・天井[せい]・天牢・天羅・天陥・天隙あらば、必らず亟かにこれを去りて、近づくこと勿かれ。吾れはこれに遠ざかり、敵にはこれに近づかしめよ。吾れはこれを迎え、敵にはこれに背せしめよ。


 軍の傍に険阻・こう[水黄]井・葭葦[かい]・山林・えい[艸+翳]薈[わい]ある者は、必らず謹んでこれを覆索せよ、此れ伏姦の処る所なり。


 敵近くして静かなる者は其の険を恃むなり。遠くして戦いを挑む者は人の進むを欲するなり。其の居る所の易なる者は利するなり。衆樹の動く者は来たるなり。衆草の障多き者は疑なり。鳥の起つ者は伏なり。獣の駭[おどろ]く者は覆[ふう]なり。塵高くして鋭き者は車の来たるなり。卑くして広き者は徒の来たるなり。散じて条達する者は樵採なり。少なくして往来する者は軍を営むなり。


 辞の卑[ひく]くして備えを益す者は進むなり。辞の強くして進駆する者は退くなり。約なくして和を請う者は謀なり。軽車の先ず出でて其の側に居る者は陳するなり。奔走して兵を陳[つら]ぬる者は期するなり。半進半退する者は誘うなり。


 杖[つえつ]きて立つ者は飢うるなり。汲みて先ず飲む者は渇するなり。利を見て進まざる者は労[つか]るるなり。鳥の集まる者は虚しきなり。夜呼ぶ者は恐るるなり。軍の擾[みだ]るる者は将の重からざるなり。旌旗の動く者は乱るるなり。吏の怒る者は倦みたるなり。馬に粟[ぞく]して肉食し、軍に懸ふ[卸−卩+瓦]なくして其の舎に返らざる者は窮寇なり。諄々翕々[じゅんじゅんきゅうきゅう]として徐[おもむろ]に人と言[かた]る者は衆を失うなり。数[しばしば]賞する者は窘[くる]しむなり。数罰する者は困[つか]るるなり。先きに暴にして後に其の衆を畏るる者は不精の至りなり。来たりて委謝する者は休息を欲するなり。兵怒りて相い迎え、久しくして合わず、又た解き去らざるは、必らず謹しみてこれを察せよ。


 兵は多きを益ありとするに非ざるなり。惟だ武進することなく、力を併わせて敵を料[はか]らば、以て人を取るに足らんのみ。夫れ惟だ慮[おもんぱか]り無くして敵を易[あなど]る者は、必らず人に擒にせらる。卒未だ親附せざるに而もこれを罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用い難きなり。卒已[すで]に親附せるに而も罰行なわれざれば、則ち用うべからざるなり。故にこれを合するに文を以てし、これを斉[ととの]うるに武を以てする、是れを必取と謂う。令 素[もと]より行なわれて、以て其の民を教うれば則ち民服す。令 素より行なわれずして、以て其の民を教うれば則ち民服せず。令の素より信なる者は衆と相い得るなり。

十 地形篇〈六種の地形をどう利用するか〉

〈地形に適した戦術をとる〉

 戦場の地形には、

  1:四方に広く通じ開けている
  2:途中に行軍が渋滞する難所を控えている
  3:脇道が分岐している
  4:道幅が急にせばまっている
  5:高く険しい
  6:両軍の陣地が遠くかけ離れている

ものがある。

(一)わが方からも自由に行けるし、敵方からも自由にこれるのは「通じ開けている」地形と呼ぶ。通じ開けた地形では、敵軍よりも先に高地の南側に陣取って、食料の補給路を有利に確保する形で戦えば、有利になる。

(二)その道に沿って進むことは何とかできても、引き返すのが難しいのは、「途中に引っかかる難所がある」地形と呼ぶ。難所を控えた地形では、難所の向こう側に敵の防御陣地がない場合には、難所を越えて出撃して勝てる。もし、敵の防御陣地が存在する場合には、出撃しても勝てず、再び難所を越えて引き返すのも難しくなって、不利である。

(三)わが方が先に進出しても不利になるし、敵方が先に進出しても不利になるのは、「脇道が分岐している」地形と呼ぶ。脇道が枝分かれしている地形では、たとえ敵が自軍に進出の利益を示して誘っても、それにつられてわが方から先に進出しない。軍を後退させて分岐点を離れ、逆に敵軍の半数を、分岐点をすぎて進出させておいてから攻撃するのが有利である。

(四)両側から岩壁が張り出して、急に道幅がせばまっている地形では、わが方が先にその地点を占拠していれば、その隘路上に必ず兵力を密集させておいてから、敵の来攻を待ち受けよ。もし、敵が先にその地点を占拠していて、しかも敵の兵力がその隘路上に隙間なく密集している場合には、そこへ攻めかかってはならない。たとえ敵が先に占領していても、その隘路上を、敵の兵力が埋めつくしていない場合には、攻めかかれ。

(五)高く険しい地形では、わが方が先にその地点を占拠している場合には、必ず高地の南側に陣取った上で、敵の来攻を待ち受けよ。もし、敵の側が先にその地点を占拠している場合には、軍を後退させてその場を立ち去り、そこの敵軍に攻めかかってはならない。

(六)双方の陣地が遠く隔たっている地形では、戦勢が互角な場合は、自分の方から出陣して先に戦いを仕掛けるのは困難であり、無理に出かけていって戦闘すれば、不利になる。

 およそこれら六つの事柄は、地形についての道理である。将軍の最も重大な任務であるから、明察しなければならない。

 そこで、軍隊には

  1:逃亡する
  2:ゆるむ
  3:落ち込む
  4:崩れる
  5:乱れる
  6:負けて逃げる

のがある。すべてこれら六つのことは、自然の災害ではなくて、将軍たる者の過失によるのである。

(一)そもそも軍の威力がどちらも等しいときに、十倍も多い敵を攻撃するのは、戦うまでもなく逃げ散らせる。

(二)兵士たちの実力が強くて、取り締まる役人の弱いのは、軍をゆるませる

(三)取締りの役人が強くて、兵士の弱いのは、軍を落ち込ませる

(四)役人の頭が怒って将軍の命令に服従せず、敵に遭遇しても恨み心を抱いて、自分勝手な戦いをし、将軍はまた彼の能力を知らないというのは、軍を突き崩す

(五)将軍が軟弱で厳しさがなく、軍令もはっきりしないで、役人兵士たちにもきまりがなく、陣立てもデタラメなのは、乱れさせる

(六)将軍が敵情を考えはかることができず、小勢で大勢の敵と合戦し、弱勢で強い敵を攻撃して、軍隊の先鋒に選びすぐった勇士もいないのは、負けて逃げさせる

 すべてこれら六つのことは、敗北についての道理である。将軍の最も重要な責務として充分に考えなければならないことである。


  孫子曰わく、
 地形には、通ずる者あり、挂[さまた]ぐる者あり、支[わか]るる者あり、隘[せま]き者あり、険なる者あり、遠き者あり。
 我れ以て往くべく疲れ以て来たるべきは曰[すなわ]ち通ずるなり。通ずる形には、先ず高陽に居り、糧道を利して以て戦えば、則ち利あり。
 以て往くべきも以て返り難きは曰ち挂ぐるなり。挂ぐる形には、敵に備え無ければ出でてこれに勝ち、敵若し備え有れば出でて勝たず、以て返り難くして不利なり。
 我れ出でて不利、彼れも出でて不利なるは、曰ち支るるなり。支るる形には、敵 我れを利すと雖も、我れ出ずること無かれ。引きてこれを去り、敵をして半ば出でしめてこれを撃つは利なり。
 隘き形には、我れ先ずこれに居れば、必らずこれを盈たして以て敵を待つ。若し敵先ずこれに居り、盈つれば而ち従うこと勿かれ、盈たざれば而ちこれに従え。
 険なる形には、我れ先ずこれに居れば、必ず高陽に居りて以て敵を待つ。若し敵先ずこれに居れば、引きてこれを去りて従うこと勿かれ。
 遠き形には、勢い均しければ以て戦いを挑み難く、戦えば而ち不利なり。
 凡そこの六者は地の道なり。将の至任にして察せざるべからざるなり。


 故に、兵には、走る者あり、弛む者あり、陥る者あり、崩るる者あり、乱るる者あり、北[に]ぐる者あり。凡そ此の六者は天の災に非ず、将の過ちなり。
 夫れ勢い均しきとき、一を以て十を撃つは曰ち走るなり。
 卒の強くして吏の弱気は曰ち弛むなり。
 吏の強くして卒の弱きは曰ち陥るなり。
 大吏怒りて服せず、敵に遭えばうら[對心]みて自ら戦い、将は其の能を知らざるは、曰ち崩るるなり。
 将の弱くして敵ならず、教道も明らかならずして、吏卒は常なく兵を陳[つら]ぬること縦横[しょうおう]なるは、曰ち乱るるなり。
 将 敵を料ること能わず、小を以て衆に合い、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒なきは、曰ち北ぐるなり。
 凡そこの六者は敗の道なり。将の至任にして察せざるべからざるなり。

〈指導者の理想像〉

 そもそも土地の形状は、軍事行動の補助要因である。敵情をはかり考えては勝利の形を策定しつつ、地形が険しいか平坦か、遠いか近いかを検討して、勝利実現の補助手段に利用していくのが、全軍を指揮する上将軍の踏むべき行動基準である。こうしたやり方を熟知して戦闘形式を用いる者は必ず勝つが、こうしたやり方を自覚せずに戦闘形式を用いる者は、必ず敗れる。

 そこで、戦闘の道理として自軍に絶対の勝算があるときには、たとえ主君が戦闘してはならないと命じても、ためらわず戦闘してかまわない。

 戦闘の道理として勝算がないときには、たとえ主君が絶対に戦闘せよと命じても、戦闘しなくてかまわない。

 したがって、君命を振り切って戦闘に突き進むときでも、決して功名心からそうするのではない。君命に背いて戦闘を避けて退却するときでも、決して誅罰をまぬがれようとせずに、ひたすら民衆の生命を保全しながら、しかも結果的にそうした行動が君主の利益にもかなう。このような将軍こそは、国家の財宝である。

 将軍が兵士を治めていくのに、兵士たちを赤ん坊のように見て、万事に気をつけていたわっていくと、それによって兵士たちと一緒に深い谷底のような危険な土地にも行けるようになる。

 兵士たちをかわいいわが子のように見て、深い愛情で接していくと、それによって兵士たちと生死をともにできるようになる。

 しかし、もし手厚くするだけで仕事をさせることができず、かわいがるばかりで命令することもできず、デタラメをしていてもそれを止めることができないのでは、たとえてみればおごりたかぶった子供のようで、ものの用にたたない。

 味方の兵士に、敵を攻撃して勝利を収められる力があることがわかっても、敵の方に備えがあって、攻撃してはならない状況があることを知っていなければ、必ず勝つとは限らない。

 敵に隙があって、攻撃できる状況があることがわかっても、味方の兵士が攻撃をかけるのに十分でないことがわかっていなければ、必ず勝つとは限らない。

 敵に隙があって攻撃できることがわかり、味方の兵士にも敵を攻撃する力のあることはわかっても、土地のありさまが戦ってはならない状況であることを知るのでなければ、必ず勝つとは限らない。

 だから、戦争のことに通じた人は、敵・味方・土地のことをわかった上で行動を起こすから、軍を動かして迷いがなく、合戦しても苦しむことがない。だから、「敵情を知って、味方の事情も知っておれば、そこで勝利に揺るぎがない。土地のことを知って、自然界のめぐりのことも知っておれば、そこでいつでも勝てる」といわれるのである。


 夫れ地形は兵の助けなり。敵を料って勝を制し、険夷・遠近を計るは、上将の道なり。此れを知りて戦いを用[おこ]なう者は必らず勝ち、此れを知らずして戦いを用なう者は必らず敗る。故に戦道必らず勝たば、主は戦う無かれと曰うとも必らず戦いて可なり。戦道勝たずんば、主は必ず戦えと曰うとも戦う無くして可なり。故に進んで名を求めず、退いて罪を避けず、唯だ民を是れ保ちて而して利の主に合うは、国の宝なり。


 卒を視ること嬰児の如し、故にこれと深谿に赴むくべし。卒を視ること愛子の如し、故にこれと倶に死すべし。厚くして使うこと能わず、愛して令すること能わず、乱れて治むること能わざれば、譬えば驕子の若く、用うべからざるなり。


 吾が卒の以て撃つべきを知るも、而も敵の撃つべからざるを知らざるは、勝の半ばなり。敵の撃つべきを知るも、而も吾が卒の以て撃つべからざるを知らざるは、勝の半ばなり。敵の撃つべきを知り吾が卒の以て撃つべきを知るも、而も地形の以て戦うべからざるを知らざるは、勝の半ばなり。故に兵を知る者は、動いて迷わず、挙げて窮せず。
 故に曰わく、彼れを知りて己れを知れば、勝 乃ち殆[あや]うからず。地を知りて天を知れば、勝 乃ち全うすべし。


by ISHIHARA Mitsumasa 石原光将