戦略戦術詳解研究会著 第七巻 第七十二章 戦術の沿革 |
この72章のみひらがなで公開することをお許し頂きたい。石原。 |
太古および中古における武器太古および中古において開明国民の用いたる武器はおおむね一様なり。今その概要を示せば左の如し。 甲 擲兵 すなわち遠戦に用いる兵器は投石具、擲槍、弓(中古にありては弩弓)等なり。 |
太古希臘および羅馬の戦術
当時遠戦用の武器はその効力微弱にして近距離にのみ使用せられ、かつ敵の護身器に対し十分の効を奏するあたわず。故に本然の戦闘は白兵を用いる密集兵団をもって実行せられたり。また遠戦の価値はその如く微少なるがゆえに、当時人の注意を惹くあたわざりし。ことに希臘人および羅馬人において然りとす。ゆえに遠戦をなす者は寡少の兵力にしてその性質に従い散開せる隊形をもって稠密の兵団に先駆し、またはその間隙に在って交戦したり。 戦闘の方法は右の如くなるをもって彼我共に勉めて進退に便なる開濶地を撰み一挙に突進して互に衝突することを勉め、局地および掩蔽物を利用し、かつこれによりて防御するはただ特別の場合のみなりき。 当時の原則に二あり。かれこれ正反対の性質を有す。すなわち集結せる大兵団の戦術および独立せる小兵団の戦術これなり。 大兵団の戦術は希臘および馬世徳尼亞{マケドニア}の「ファランクス」Phalanx 隊においてその進歩の極点に達せり。この如き大兵団は接戦のためには勢力大なるも、その欠点とするところは運動不便なるにあり。 小兵団の戦術は羅馬の「レギオン」Legion隊の用いたる「マニプラール」Manipularと称する隊形において最大の効用を呈せり。この隊形はその運動自在にしてかつ敏捷の利を有せりといえども、兵力分離しやすきの不利あり。よくこの不利を医{いや}せんには精練の軍隊と巧妙なる指揮者とを要す。しこうしてこの二者の要求にして充足せばはるかに大兵団に優れり。 |
希臘および馬世徳尼亞の「ファランクス」(Phalanx)希臘人および馬世徳尼亞人の用いたる「ファランクス」隊は「ヒリアルヒー{キリアルキー}」Chiliarchie四隊より成り、兵数四千余にしてほぼ現今の歩兵連隊の如し。「ヒリアルヒー」は「ジンタグマア{シンタグマ}」Syntagma 四隊より成り、その兵数約一千にしてほぼ現今の歩兵大隊に同じ。「ジンタグマア」はほぼ現今の歩兵中退と同じく、約二百五十人より成り、正面および縦深各十六名にして方形に布陣せり。
軍中もし数個の「ファランクス」隊あるときは各「ファランクス」隊を独立兵団となすことなく、これを結合して大「ファランクス」隊を編成す。正規の大「ファランクス」隊は四個の「ファランクス」隊をもって編成し、その数約一万六千人なり。しかれども馬世徳尼亞開国前にありては希臘は微弱にしてこの如き兵数を挙げえしことはなはだまれなりき。また歴山{アレクサンドロス}大王といえどもなおかつ三個の「ファランクス」隊すなわち一万二千をもってその軍の大「ファランクス」隊を編成せしに過ぎず。 希臘および馬世徳尼亞の「ファランクス」隊固有の戦法は、槍をもってする密集突撃なり。これがためには前方五列(重装兵)は長槍を携帯す。その槍の長きこと、第五列兵の槍すらなお第一列兵を超過したるをもって知るべし。およそ後方の列兵は槍をその前兵の肩上に依託し、前方の列兵は突撃の際に至り槍を構う。この如くなるをもってその敵に対して突進する状は、あたかも稠密せる槍林の激動するが如し。この「ファランクス」隊の前方および両翼には擲兵を携帯せる軽歩兵ありて散戦に任ぜり。 |
羅馬の「レギオン」(Legion)羅馬人はつとに「ファランクス」隊の密集隊形を廃し、ようやく進んで運動軽捷なる小部隊の戦術を創設せり。「レギオン」隊これなり。この隊と馬世徳尼亞の「ファランクス」隊と交戦したるときはまさに「レギオン」隊の「マニプラール」(Maniplar)隊形をもってする進歩の極点に達したる時とす。 「レギオン」隊は諸兵種より成る独立の兵団にして、ほとんど今日の歩兵師団に相当す。しこうしてその兵力は歩兵四千ないし六千人、騎兵三百人にして、後、これに若干の砲熕を付加せり。「レギオン」隊の歩兵は三線に布置し、各線は独立の小縦隊すなわち「マニプラール」隊十個より成り、各々「マニプラール」隊はおよそ三十歩の間隔をもって同線上に併列し、後方の線上に在る諸隊は前線の間隔後において魚鱗状に位置す。第一線および第二線に占拠すべき各「マニプラール」隊は兵員百二十名にして、正面に十二名、縦深に十名を置く。第三線の各「マニプラール」隊は兵員六十名にして、正面を六名とし、縦深を十名となす。しこうして年少者を第一線に、年老者を第三線に配置せり。 以上の隊形をもってする特有の戦法は、遠戦と接戦とに併用し、第一線の兵は敵と相へだたること約十歩に達すれば、短槍を抛ち、次いで短刀を揮い、敵中に躍入す。 第二線は第一線を扶援するに任じ、第三線すなわち槍を携帯する「マニプラール」隊は止まって敵を待ち、前方にある諸兵の敗走するに当たってはこれを収容し、第三線の間隔内に退いて戦闘を更進せしめ、または後方において再び隊伍を整頓せしむるに任ぜり。 各「マニプラール」隊は密集突撃を専任する戦兵のほか、なお四十名の遠戦兵(軽装兵)を有せり。この兵は戦闘の始めに「マニプラール」隊を離れ、散開隊形をもって突撃の先駆をなせり。 かくの如く運動自由にしてかつ靱強の戦闘力ある隊形をもってする包囲攻撃に対しては、運動不便にしてかつ側面薄弱なる馬世徳尼亞の「ファランクス」隊はまたこれに当たることあたわざるや明らかなり。 爾来、羅馬軍はその兵衆ますます加わりしといえども内部の結合力ますます衰微して、漸次傭兵軍の性質に変移せるをもって、またかえって大兵団の制に復帰するを必要とするに至れり。 |
太古支那における戦術支那にあっては周の武王 天子の位に即き(紀元前1123年)、六軍を統べ、1軍(今日の師団もしくは軍団に相当するもの)は師、旅、卒、両、伍の階級的編合より成り、人員一万二千五百人を有したりという。しこうして国民皆兵制度にて歩兵を主兵とせり。後、戦国時代には孫呉の兵法あり。三国時代には諸葛孔明の如き名将出て、布陣の方法には、方陣、円陣、縦陣等を用い、戦うに当たりては前に兵車あり、騎兵はその左右に列し、歩兵は兵車の後方にありて、まず弓矢をもって開戦し、次いで刀槍におよび、敵もし敗北するときは騎兵をもって追撃せしむ。しこうして歩兵の軽装せる者は左右に、重装せる者は中心に置きたるものの如し。 |
太古印度における戦法印度人は戦闘のために象を使用し、その後、希臘人および羅馬人の如きもまたこれに倣う。この動物は当時の兵器に対して十分の抵抗力あり。加うるによく事物を学得するの性を備え、従順にしてかつ勇猛なり。その背上には武装せる兵と共に鉄甲塔を負担せしめ、もって徒歩せる戦闘兵団に先駆して、敵中に踊入せしめたり。 |
太古埃及{エジプト}における戦法埃及の戦闘兵団はその兵員一万にして正面および縦深に各百名を置き、方形に布陣し、両翼には遠戦用の兵器を携える軽装の歩兵および寡員の騎兵を備えたり。 |
太古波斯{ペルシア}における戦法波斯人は当時すでに最も軽捷なる隊形を用う。すなわち、その戦闘部隊はいずれも十名ないし十二名の縦長を有して数線に配置せり。 この国においては、概して乗馬兵の使用不完全にして、馬術もまたいまだ開けず。その兵をして駱駝に騎乗せしめたることあり。
|
太古の騎兵騎兵 当時騎兵は兵員寡なく馬具不完全にして馬術に熟練せず。ゆえにその効用微なれば密集疾駆して敵を攻撃するを不名誉となし、徒歩の接戦をもって有利なりと誤信するに至れり。ただ「アレキサンドル{アレクサンドロス}」「ハンニバル」「セザール{カエサル=シーザー}」の如き名将はよく騎兵の性能を弁知し、軍の運動間はこれを捜索に使用し、戦闘間は敵の側面を撃破せしめ、もってその効用を顕わせり。しかれども、要するに皆歩兵をもって軍の主兵となし、最も必要なる兵種となせり。 |
太古の砲兵砲兵 砲兵はその効力はなはだ微弱なると射距離の短小なるがため、その効用もまた少なきがゆえに、身分卑しき者をこれに任ぜり。したがって時人は軍隊いよいよ砲兵の協力を要することなしと信ぜり。「アレキサンドル」「セザール」の時代には砲兵は築設陣地もしくは河川等の戦闘にして直接に短兵を使用しあたわざるときに用いしのみ。爾後、軍中勇壮精神萎靡するに従い、いよいよ砲兵を要するに至れり。羅馬は各「レギオン」隊に四十門の砲熕を付属せしめたり。 |
中古欧州の戦術上古の整然たる戦術は中古に至り人民移住の狂瀾中にその痕を滅却し、その後廃れて騎士の盛時なりたり。しかれども旧時の大観を挽回することあたわざりし。 騎士は尚武の風を喚起するためには偉大の価値を有せり。しかれども戦術上の功績は唯一つあるのみ。いわく、駈歩をもってする密集襲撃の採用をもって騎兵の攻撃法を振興したる、これなり。 騎士は独り兵馬の全権を専有し、商估および農民は久しく軍役を離れ、ために歩兵は戦闘の価値を消失せり。騎士に伴随せる歩僕はその数少なく、かつ士気訓練および武装に至っては重装の騎士に及ばざることはるかに遠し。当時、各騎士の勇猛なる至るところ前なく、一騎士の名声は全軍を震慄し、歩僕の群をしていまだ侵襲を被らざるに先んじ早く、既に蛛散せしむるに至れり。 当時、独り支那において唐が天下を統一してより七、八、九世紀の頃は亜細亜の全盛時代となり、降って千二百十八年蒙古の成吉思汗{チンギス・ハーン}、国都和林(カラコルム)を発し、西征の帥を起してより爾後ほとんど二百年間亜細亜民族は全世界を震駭せしめ、欧州太古の戦術に勝れる戦闘隊形を採用しありたり。これ大に注目すべきこととす。 |
中古支那に於ける戦法成吉思汗の用兵たるや、戦闘の始めに兵を分派して敵軍を攻撃し、もって彼をして惶惑措く所を知らず。我が兵のいずれの地に向って前進するやを知らざらしめ、また、別隊をして敵の塁塞および城内の屯兵に当たらしめ、もって不慮に備え、前衛および側方の分遣隊は略奪をなすことなく専ら斥候、警衛に任ぜしめたるのみならす、帥を起すに先んじて商隊そのの他の偵察隊および間諜を放ち、敵国の内情と兵備如何を偵察し、地理を詳にし、或は敵の党与を分離せしめ、或は甲に同盟して乙を挟撃し、兵略・政略併せ行い、殊に諜報に重きを置きたるの一事はもって後人の範となすに足るものあり。 軍の主兵は騎兵にして輜重二種に分かち、開戦にはまず弓矢をもってし、次に短兵接戦に至りて戦局を結び、各兵は武器の外、裁縫具、濾水器、携帯糧食および炊具を携持し、輜重を備え、砲隊(銅壺と称するものを携う。臼砲の如きものか)を軍後に従え、攻城野戦の具悉く備わり、もって遊牧蕃地の大平原において行軍・駐軍および戦闘に便ならしめ、そのの陣形正々堂々、山河ために震えりと。 騎兵・砲兵の外、歩兵あり、しかれども、曠野において遠征するにあたりては、歩兵といえども馬匹を供したり。 成吉思汗の後に出でたる英傑帖木児{ティムール}は別に投射兵を設け、また架橋および囲城機械を使用するため工兵を設け、なお山民をもって編成したる別種の歩兵をもって山戦の用に供せり。 帖木児の戦場を選定するや、(一)水(二)育兵に便宜の地(三)地形は敵陣に勝る所。殊に太陽の光線、眼瞳に触れざるを主とす(四)戦場は広闊にしてかつ平坦なるを要する、等の注意をなせり。 帖木児の兵法たる戦線の前列は全軍中より僅少なる兵員を割きて是に充つるをもって、敵は容易に是を破るを得べし。これ帖木児の予期する所にして、前衛破るれば、両翼の列隊は互いに相次ぎて応援し、これを包囲するに至り、戦いまさに決せんとするの瞬時において始めて控置の精兵を使用せり。開戦の始めはよく側面を警め、軽々しく精兵を出さず。これかつて名将「ハンニバル」が「カンネー」において大いに羅馬兵を破りたる戦法に等し。この戦法は騎兵の大集団をもって亜細亜の曠原を蹂躙するに最もよく適応せるものというべし。 上述のごとく、蒙古軍が秩序整然たる隊伍を設け、分かちて数戦列となし、各戦列互いに相扶援するに便にし、最後に精兵をもって戦局を結び、ことに戦闘に際し敵を包囲攻撃するの方術はこれを今日の戦術に比するときは、けだし思い半ばに過ぐるものあらん。
|
太古中古における日本の戦法太古、我邦においては国民皆兵にして、神后の征韓およびその後における韓国への出兵等に顧みれば、一定の兵制ならびに隊形ありしや必せり。文武大宝令の定むるところによれば、五人を伍、二人を火、五火を隊(今の小隊に当たる)二隊を旅(今の中隊に当たる)二旅を師とし、別に騎兵隊ありて、これを統べるに軍団をもってせり。爾後、兵法は皆これを支那より伝え、源平時代より武門・武士出て兵農全く分かれ、各領主は領土の大小に応じ差違ある兵馬を養うに至り、大兵団の編成および戦術は跡を絶つに至れり。故に中古武門・武士の世には彼我相名乗りて格闘せること彼の騎士時代とその揆を一にす。 |
石原光将 ISHIHARA Mitsumasa |