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『李衛公問対(りえいこうもんたい)』は、唐の李靖が太宗の問いに答えて、戦勝の術を述べたもの。 李靖、字は薬師。京兆の三原の人。衛公に封じられた。本来武人であって、文事を解する者ではない。また、兵を談ずるだけではなく、実戦で勝利を重ねた人物である。この書物も、彼の自著ではなく、史臣が太宗との問答(問対)を筆記したものであろう。もちろん、Q(質問者)は太宗であり、A(回答者)は李靖である。おそらく李靖自身の言葉が載せられているものと思われる。 内容的には、太公望の六韜、孫子、呉子、田穣苴、張良、韓信、曹操、諸葛亮の兵法を論じ、八陳・六花・五行の陣法に及んでおり、なかなか優れた内容である。
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李靖伝(全文)李靖は隋に仕えて殿内直長であった。(※以下、唐代の話) 開州の蛮である冉肇則がキ州に侵入した。靖は兵万人を率いて、その軍を破った。険阻な場所に要害を置き、伏兵を設けて、肇則を斬った。 蕭銑が江陵に挙兵した。靖はそこで銑に対する十の策を立てた。詔があって、靖を行軍総管に拝命し、孝恭の行軍長史を兼ねさせることになった。武徳四年(621年)八月、大いに兵をキ州に動かした。そのとき、河はあふれ、流れが悪かった。銑は、靖がまだ下ることはできないだろうと考え、備えをしておかなかった。諸将は、河が落ち着いてから進むことを要請したが、靖は言った。 「兵は機事である。迅速なことが神である。今、兵士が初めて集まり、銑はそれを知らない。もし水に乗じて堤防をつたっていけば、地震や雷どころの騒ぎではない。にわかに兵を集めても、我が軍を防ぐことはできない。必ず捕虜にできるだろう」 孝恭はこれに従った。戦艦二千余艘を率いて東に下る。その荊門・宜都の二城を抜き、進んで夷陵に至った。銑の将である文士弘が精兵数万を率いて、清江に駐屯した。孝恭はこれを撃とうとしたが、李靖はこれを止めた。 「彼は救敗の師です。策はもともと立てていません。その勢いは長くありません。もししばらく南岸にとどまって、守りを緩くするように見せて一日経てば、彼は必ずその兵を分散し、とどまって我が軍を防がせたり、戻って自らを守らせたりするでしょう。兵が分かれれば勢力は弱くなります。我が軍がその隙に乗じて攻めるなら、勝たないはずがありません。今もし急に攻めれば、敵は力を合わせて死戦するでしょう。楚の兵は剽悍な精鋭です。まだ当たるにはよくありません」 孝恭は従わず、靖をとどまらせて兵営を守らせ、自ら兵を率いて戦った。果たして敗走し、南岸に戻った。 銑の衆は船を捨てて軍資を収奪していった。皆、重い荷物を背負っている。靖はその衆が乱れているのを見て、兵を放って奮撃し、おおいにこれを破った。勝ちに乗じてすぐに江陵に至り、その外壁に入った。また、水城を攻めてこれを抜き、大いに舟・艦を獲得した。靖は孝恭に、これをすべて長江に散らばらせさせた。諸将はみな言った。 「敵を破って手に入れたものは、まさに使うべきだ。どうして敵にやってしまうのか」 靖は言う。 「蕭銑の地は、南が嶺表に出、東は洞庭湖に阻まれている。我が軍は深く入っている。もし城を攻めてまだ抜けず、援兵が四方から集まれば、我が軍は表裏に敵を受けて、進退がきわまってしまう。舟があったとしても、どうしてこれを使おうか。今、舟艦を捨て、長江を塞いで下らせている。援兵がこれを見れば、かならず、江陵はすでに敗れたと思って、あえて軽々しく進まないはずだ。その往来をうかがっているうちに、十日や一カ月はとどまっているであろう。こうなれば必ず取れる」 そのとおりに銑の援兵は舟艦を見て疑って進まなかった。 輔公祐が丹陽で反乱を起こした。孝恭に詔して帥とし、靖を召して参内させ、方略を授けて、孝恭の副官として東を討たせた。公祐は、馮恵亮の水軍三万を当塗に駐屯させ、陳正道の歩兵二万を青林に駐屯させ、官軍を阻んだ。壁を堅固にして戦わない。孝恭は諸将を集めて軍議をした。皆は述べた。 「恵亮は強兵を擁しており、水陸の険阻なところにいます。これを攻めてもほとんど抜くことはできません。直接、丹陽を指して行き、その巣穴を包囲するのがいいでしょう。丹陽が潰えれば、恵亮らは自ら降るでしょう」 孝恭がまさにその軍議に従おうとしたとき、靖が言った。 「そうではありません。公祐の精兵がここにあるといっっても、自ら率いているのもまた精鋭です。今、博望諸柵すらなお抜くことができません。公祐は石頭にいるのですから、破りやすいわけがありません。進んで丹陽を攻めて、十日や一カ月下せずにいて、恵亮らが我が軍の背後を攻めれば、腹背に災いをこうむるでしょう。百全の計とはいえません。しかも、恵亮・正道は百戦以上の賊です。野戦をおそれるものではありませんが、いま、まさに自重しています。これは公祐が計画を立てているのであって、我が軍を疲労させようとしているのです。もし、不意に出てその城を攻めれば、必ず破ることができるでしょう。恵亮を抜けば、公祐はとりこになるでしょう」 孝恭はこれに従い、余りの兵で賊の砦を攻め、それから精兵を送って、陣を結んでこれを待った。砦を攻めた者は勝たずに敗走した。賊は兵を出して追ってきたが、数里行ったところで大軍に合って、そこで戦った。大いにこれを破る。靖の兵は水陸両軍が進み、万余人を殺傷した。恵亮らは逃げ去った。靖が軽兵を率いて丹陽に至ると公祐はおそれた。衆はまだ多かったのに、戦うことができず、出て逃げたので、これをとりこにした。 江南が平定されたので、東南道行台を置き、靖を行台兵部尚書とした。 太宗(李世民)が践祚すると、刑部尚書を授けた。 突厥の部族が離反した。靖は勁騎三千を率い、馬邑から悪陽嶺に赴く。頡利可汗は大いに驚いた。靖は間諜を放ってその腹心を裏切らせ、夜襲してこれを破った。可汗は身を脱して、鉄山にこもり、使者を派遣して罪を謝ってきた。靖は兵を引き、李世勣と相談して言った。 「頡利は国外で卑しい言葉を話しているが、実力は持っている。もし逃げて碩北を取れば、これを追っても追いつけないでしょう。そこで二十日の食糧を持っていって白道から襲いましょう」 前峰二百騎を遣わして、霧に乗じて行かせた。その牙を去って七里で気づき、頡利は千里の馬に乗ってまず逃げた。捜してこれを捕らえ、万余の首を斬り、男女十万をとりこにした。ここで土地を獲得し、陰山の北から大漢に至る。 靖を尚書右僕射にする。このころ、足にけがをした。 しばらくして吐谷渾が辺境に侵入した。帝は侍臣に言った。 「靖はまた起って帥となれるだろうか」 靖は行って、房玄齢を見て言った。 「私は老いたけれども、なお一仕事に耐えられます」 帝は喜んで、西海道の行軍大総管とした。任城王道宗・侯君集ら五総管の兵がみな属した。軍が伏俟城に来たところで、吐谷渾はことごとく逃げ、退いて大非川を保った。諸将は相談をした。 「春草はまだ芽を出していない。馬が弱くて戦えない」 靖は策を立てて、深く入った。ついに積石山を越え、数十回大戦してその国を破り、吐谷渾はおそれ、自滅した。 靖はさらに大寧王慕容順を立てて帰ってきた。 衛国公と改められた。 帝は遼を討とうとした。靖を召して言う。 「公は南で呉を平定し、北では突厥を破り、西では吐谷渾を平定した。ただ高麗のみがまだ服従しない。意見はあるか」 「以前は天威によってわずかの功を立てることができました。いま、病んで衰えてはいますが、陛下がもしお見捨てになりませんなら、病も治りましょう」 帝はその老を哀れんで、起用しなかった。 亡くなったのは七十九歳のとき。司徒並州都督を贈られた。班剣羽葆鼓吹を給し、昭陵に陪葬した。おくりなを景侯という。 |
by ISHIHARA Mitsumasa 石原光将 |